捕鯨生活と帰国とは? わかりやすく解説

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捕鯨生活と帰国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:36 UTC 版)

ジョン万次郎」の記事における「捕鯨生活と帰国」の解説

学校を卒業後桶屋で働くなどしているが、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗る道を選ぶ。1846年5月16日ニューベッドフォード出港1846年弘化3年)から数年間は近代捕鯨捕鯨船員として生活していた。このとき、大西洋インド洋経由してホノルル寄港しており、別れた漂流民と再会している。また、琉球小島上陸しているが、帰国果たせなかった。 この航海ボストンアゾレス諸島カーボベルデ喜望峰アムステルダム島ティモール島スンダ海峡ニューアイルランド島ソロモン諸島グアムマニラ父島ホノルルモーリシャスなどに行く。1849年9月、再びニューベッドフォード戻り船ウィリアム・ホイットフィールド再会した後、帰国資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコスティグリッツ号で水夫として渡りサクラメント川蒸気船遡上し、鉄道で山へ向かった。数か月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。 そこで得た資金持ってホノルル渡り土佐漁師仲間再会する1850年12月17日知己であった宣教師新聞発行していたSamuel C. Damon(英語版)の協力もあり、上海行き商船サラ・ボイド号に伝五右衛門と共に乗り込み購入した小舟アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した嘉永4年1851年)、薩摩藩服属していた琉球アドベンチャー号で上陸図り翁長牧志朝忠から英語で取り調べ受けたり地元住民交流した後に薩摩本土送られた。海外から鎖国日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行厚遇し開明家で西洋文物興味のあった藩主島津斉彬は自ら万次郎海外情勢文化などについて質問した。斉彬の命により、藩士船大工らに洋式造船術や航海術について教示した後、薩摩藩はその情報元に和洋折衷船の越通船建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識注目し、後に薩摩藩洋学校開成所)の英語講師として招いている。 薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎送られ江戸幕府長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。長崎奉行所踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられたが、慣例として残っているのみで、描かれた絵はほぼ解読不能等しく、何かよくわからないまま踏んだという。加えて外国から持ち帰った文物没収された後、土佐藩から迎えに来た役人引き取られ土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際中浜同居させて聞き取り当たった河田小龍万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2か月後、帰郷許され帰国から約1年半後の嘉永5年1852年)、漂流から11年目にして故郷帰ることができた。

※この「捕鯨生活と帰国」の解説は、「ジョン万次郎」の解説の一部です。
「捕鯨生活と帰国」を含む「ジョン万次郎」の記事については、「ジョン万次郎」の概要を参照ください。

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