捕鯨生活と帰国
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学校を卒業後は桶屋で働くなどしているが、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長の捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗る道を選ぶ。1846年5月16日にニューベッドフォードを出港。1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。このとき、大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港しており、別れた漂流民と再会している。また、琉球の小島に上陸しているが、帰国は果たせなかった。 この航海でボストン、アゾレス諸島、カーボベルデ、喜望峰、アムステルダム島、ティモール島、スンダ海峡、ニューアイルランド島、ソロモン諸島、グアム、マニラ、父島、ホノルル、モーリシャスなどに行く。1849年9月、再びニューベッドフォードに戻り船長ウィリアム・ホイットフィールドと再会した後、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへスティグリッツ号で水夫として渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数か月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。 そこで得た資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。1850年12月17日、知己であった宣教師で新聞を発行していたSamuel C. Damon(英語版)の協力もあり、上海行きの商船サラ・ボイド号に伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。 嘉永4年(1851年)、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受けたり、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化などについて質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示した後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。 薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられたが、慣例として残っているのみで、描かれた絵はほぼ解読不能に等しく、何かよくわからないまま踏んだという。加えて、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰ることができた。
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