押兼氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)
「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「押兼氏」の解説
大借金を踏み倒して、家族を残して出奔のため改易・取り潰し。 与板から随従した家臣で家老に次ぐ用人・加判にまで累進した(持高120石)。庶系の押兼団右衛門長常は、馬術の達人であり、別家召し出しを受け押兼流馬術を成立させ50石・給人職まで、班を進めた。惣領家の押兼伝太夫は、宝暦9年(1759年)、大借金を踏み倒して、家族を残して出奔したため改易・取潰しとなった。この家系の名跡再興はなかった。 庶系の押兼氏(押兼団右衛門家)は馬術指南役などを勤める家系となった。押兼姓は東信地方に存在する苗字であるが、上田市蒼久保、上田市長瀬(旧丸子町)、東御市などで帰農していた有力郷士・大百姓の押兼(押鐘)一族を小諸藩主牧野氏が、信濃小諸藩に加増・移封された機会に、その高名を聞き召し抱えたということは、与板藩・小諸藩の分限帳をはじめとする各種文書からあり得ない。 また庶系の押兼氏(押兼団右衛門家)は当主による喧嘩・暴力行為事件があり失脚。名跡再興により持高20石で家督が認められて存続した(厳密には押兼氏の当主が結婚披露宴で酒を飲み、他の出席者と大喧嘩となり、暴力行為に発展。結果的に結婚行事を妨害し、ハレの宴席を滅茶苦茶にしたことは、疑いがないが、それを直接の原因として、改易・取り潰しとなり、後に持高減石・格式降格の上、名跡再興になったか否かは不詳。喧嘩・暴力事件による失脚と、改易・取り潰しになった理由は、別の可能性も排除できない)。 小諸惣士草割高成立時までに4石加増されて、持高24石となり、徒士格などの下級士分を連綿していたが、8代藩主の治世の頃に馬廻り格となり、9代藩主の治世に班を進めて持高50石、給人格・給人席となった。持高を減石する改革の中で、逆行高しており、率にすれば実質大加増である。押兼銀右衛門義方は、さらに加恩6石を受けた(持高56石)。 小諸騒動では、反加藤・牧野求馬派に与して、押鐘文三郎は、加藤六郎兵衛成美・牧野求馬成賢等の暴挙を明治新政府に密告を企てた同志を支援したが急死した(毒殺説あり)。維新期には角田氏から、養子入りした押兼厚生正心が、持高50石で家督を認められて、士分下禄に列した。そして加藤・牧野求馬派失脚後に若輩ながら寺社事務の取りまとめ役に抜擢された。幕末・維新期に押兼氏(押兼団右衛門家)は、給人格連綿の家柄・格式に昇格していたが、名跡再興後に、給人席以上の役職に2代であったためか、士分中禄を認められなかった。
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