戦前 - 在阪3行の合併で発足
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「三和銀行」の記事における「戦前 - 在阪3行の合併で発足」の解説
三和銀行は、1933年(昭和8年)12月、いずれも本店を大阪に置く、三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行合併により創立された。 鴻池銀行は、鴻池家により1877年5月に設立された第十三国立銀行に端を発し、三和銀行はこのときを創業日にしていた。鴻池家は江戸時代初期の1656年に両替店を開いており、歴史は三百数十年に及び、国際的にも極めて古い金融業者であった。三和銀行のロゴの下に「since 1656」と書かれていたのはこのためである(以前はsince 1877だった)。 山口銀行は大阪・山口財閥の中心企業で、江戸時代末期の1863年開業の布屋両替店が源である。山口家は1879年4月に第百四十八国立銀行を設立し、これを山口銀行が継承した。 三十四銀行は大阪の繊維関係の商人である岡橋治助、原嘉助、野田吉兵衛、永井仙助、村上嘉兵衛、渡辺庄助、山口善五郎の7人が1878年3月に設立した第三十四国立銀行を起源とし、堅実経営に徹しながらも中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった。 昭和初期の昭和金融恐慌下、三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行 の財閥系銀行がシェアを伸ばす中で、前述3行も他の小銀行併合などにより、これらに次ぐ有力銀行としての地位を固めていたが、時の軍需産業・重化学工業など新興産業の台頭に比し資金量が小規模に留まり、また同じ繊維業界を営業地盤とする3行の競争は望ましくないとして、合併へ進んだ。1933年、三和銀行創立準備委員会が設けられ、佐野政晴(三十四銀行常務)、森信敬二(山口銀行常務)、松野龍雄(鴻池銀行取締役)の3人がメンバーになり、新銀行は本店を大阪市東区の旧鴻池銀行本店に置いた。頭取には当時 日本銀行 理事にあり、それまで大阪支店長にあって3行統合を唱道していた中根貞彦が就任。常務理事には上述の3人に日本銀行から下田元一が加わった。 合併行の行名選定にあたっては「三和・三友・三光・三山・三吉・三衛・三栄・三協」などの多数の候補名があったが、中根頭取が「三和」を選んだ理由として、後日「三和の意は文字通り三行が和することを意味する」と強調した。また、行内史『三和銀行の歴史』によれば、創立当時「三和の三は三十四の三、和の扁である禾は鴻池新田の稲を意味し、和の旁の口は山口の口からとった」という説明もなされている。なお、この合併の推進を図った当時の日銀総裁・土方久徴 が頭取の人選を一任され「三和」と命名したとされている。 設立直後の年末の第1回決算で預金高は10億円を超え、日本の普通銀行のトップに立った。しかし、その後の大阪の経済的地盤の低下や、在京銀行による中小銀行の併合などにより、預金高ランキングを落としていく。
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