戦前 小岩昭和館/小岩松竹館の時代
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1927年(昭和2年)6月、東京府南葛飾郡小岩村大字下小岩(東京都江戸川区南小岩7丁目17番10号)に小岩昭和館として開館した。開館の翌年、1928年(昭和3年)11月10日には、町制施行して小岩町になっている。当時の同館は、1930年(昭和5年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、経営者は刀根豊之助、興行系統はマキノ・プロダクション、および日活と松竹キネマとあり、観客定員数の記載はない。刀根豊之助は当時、本所区(向島区とともに現在の墨田区)議会の議長を務めていた人物である。同館は、小岩駅の南口、駅前通り(現在のフラワーロード)の商店街の五辻を左折した場所にあり、同駅周辺では最初の映画館であった。1932年(昭和7年)10月1日、南葛飾郡全域が東京市に編入され、小岩町は江戸川区になった。 1940年(昭和15年)前後には、小岩松竹館と改称、松竹作品の上映館になっており、同時期に簱興行の簱栄吉に経営権が移っている。簱栄吉は、1928年1月に簱興行を設立した人物で、すでに平井松竹館(平井町2丁目975番地)、亀戸昭和館(亀戸町3丁目257番地、のちの亀戸日勝映画劇場)および亀戸松竹館(亀戸町3丁目168番地)、五反田劇場(品川区五反田1丁目261番地)、池袋日勝映画館(豊島区池袋町1丁目743番地、のちの池袋日勝映画劇場)を経営しており、この時期までには、江戸川区に小松川電気館(小松川3丁目53番地)、城東区(現在の江東区)に三光館(南砂町1丁目285番地)、神奈川県横浜市中区に中島常設館(共進町3丁目55番地)、千葉県市川市に市川映画館(市川2丁目3057番地)と、同館を含めて10館の映画館を経営していた。 1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の系統は記載されていない。当時の同館の支配人は和田又兵衛、観客定員数は440名であった。当時の江戸川区内の映画館は同館を含めて全4館であったが、そのうち3館が簱栄吉(簱興行)の経営によるものであり、あとの1館は、東宝小松川映画劇場(逆井1丁目59番地、経営・金津正、紅10系)であった。1945年(昭和20年)3月、強制疎開が行われ、駅前通りの東側が従来の8メートルから15メートルに拡張されたが、同館に影響はなく、同年3月10日の東京大空襲の被害にも遭わなかった。
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