成功と定住化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は、結果的に自らの農地を取得し自作農となることを選択し、日本人移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得し、「植民地」と呼ばれる集団入植地や農業組合を形成するようになり、1919年には、初の日系農業組合として、ミナスジェライス州に「日伯産業組合」が設立された。ただし、多くの日系移民はサンパウロ州、パラナ州に居住しており、ミナスジェライス州には少ない。この様な傾向はその後増加し「コチア産業組合」(サンパウロ)など、その後ブラジルの農業の振興に大きな役割を果たす農業組合が多数出来てゆくこととなる。 その後多くの日本人移民が自作農として独立、成功し、コーヒー価格の暴落を受けて綿や胡椒、茶やジャガイモなどへの転換を進める者や、サンパウロを中心に日本人移民向けの各種商店や工場、医師を開業する者が現れた。胡椒農家の成功は特筆に価する。サンパウロ州で始まったが、後にアマゾン川に近い北部のパラー州で大成功を収めた。 当時の農学の常識では、モンスーンが吹かないブラジルでの茶の栽培は不可能とされていたにもかかわらず、奇跡とも思える紅茶栽培に成功を果たしたサンパウロ州のオカモト農園は、ブラジル政府から表彰された。ブラジル一般国民にはあまり知られていないが(ブラジル人の多くは普段紅茶を飲まない)、ブラジルは紅茶の大生産国であり、そのほとんどが一般消費用としてイギリスに輸出されている。その後これらの多くは日本人移民、日系ブラジル人だけでなく、旧来在住の非日系ブラジル人向けにその商圏を広めていくこととなった。 なお、ジャガイモやレタス、トマトやにんにくなどの、現在ブラジルで栽培されている野菜や果物などの農産物の多くは、農作物の転換を進めた日本人移民がブラジルへ持ち込み、品種改良などを通じてブラジルの赤土での栽培に成功したものである。多くのブラジル人は二十世紀末に移入されたキウイを日本起源の果物と認識しているが(実は中国起源)、この都市伝説はブラジルでの日系移民の貢献がいかに大きかったかを物語っている。 日本人移民の子弟や、現地で出生した日本人移民2世(=日系ブラジル人)の教育の必要性が出てきたことから、1915年には、当時日本人移民が多く集まっていたサンパウロ市内のコンデ・デ・サルゼーダス街に、ブラジル初の日本人学校である「大正小学校」が設立された。その後各地に「日語学校」が設立された。これらの学校は公立学校と競合するものではなく、日本語および日本文化の塾のような性格であった。ただし、公立学校のなかった奥地(当時は珍しくなかった)では一般学校の代用もした。
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