愛知県議会議員へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 05:02 UTC 版)
愛知県議会・岡崎市選挙区は六ツ美町編入に伴い、1963年(昭和38年)から定数が3から4に増えた。それ以後自民党はほとんどの選挙で3議席を確保し続けてきたが、1983年(昭和58年)の選挙で当選したのは現職の柴田尚道のみであった。裁判中だった中根薫は内田喜久の支援を受けて無所属で立候補し、2期目の当選を果たした。 1985年4月15日、最高裁は中根薫の上告を棄却。中根は有罪判決の確定前に県議を辞職した。同年10月21日、中野四郎衆議院議員が在職中に死去すると、熾烈な後継者争いが起こる。弁護士の杉浦正健が1986年(昭和61年)3月に内定を受け、同年7月の総選挙で初当選。31年ぶりに岡崎から自民党代議士が誕生した。党岡崎市支部はその余勢を駆って、翌年の県議選に向けて、3議席奪還を目論む。 ところが保守系からは現職の柴田尚道のほか、前市議の柴田紘一、前市議の青山秋男、内田の計4人が立候補に名乗りを上げた。党支部では「公認は3人にしぼるべき」という意見が多勢を占めたため、議論が紛糾。特に内田に対する風当たりは強く、青山は「私は市議を一度辞め、(公民権回復後)再び当選してみそぎを受けた。まだ解決していない康宏君は遠慮すべきだ」と主張した。結局、支部では調整しきれず県連に一任。県連は一次公認の柴田尚道に新人3人を加え、定数いっぱいの4人を公認することで問題に決着をつけた。その背景には岡崎の票田をめぐる代議士たちの強い思惑があった。杉浦正健は表向き4候補を推薦したものの、柴田尚道と柴田紘一は杉浦派に属し、青山の後援会幹部は稲垣実男派に属していた。浦野烋興は岡崎での勢力維持のため内田に推薦を出した。 1987年(昭和62年)4月12日、愛知県議会議員選挙執行。投票率は58.75%。 候補者名当落年齢所属党派新旧別得票数小見山徹之助 当 48 民社党 現 24,986票 八田広子 当 41 日本共産党 新 19,493票 内田康宏 当 34 自由民主党 新 18,167票 柴田紘一 当 46 自由民主党 新 17,718票 柴田尚道 落 52 自由民主党 現 17,124票 青山秋男 落 40 自由民主党 新 16,310票 売上税導入反対を訴えた日本共産党の八田広子は初出馬ながら得票数2位で当選。名古屋市緑区では社会党の中村友美が、豊橋市では同じく社会党の柏熊光代が初当選し、12年ぶりに女性県議が誕生した。内田は続く3位で初当選。3期目の柴田尚道は党岡崎市支部長の要職にあったが、選挙期間中に病にかかったことが痛手となり、4位当選の柴田紘一に594票差で敗れた。最下位で落選した青山は1991年(平成3年)の県議選で初当選した。 2003年(平成15年)10月14日、愛知県議会副議長の近藤浩が衆院選に出馬するため県議を辞職。その後を受けて同年11月28日、副議長に就任。2006年(平成18年)5月26日、第86代議長に就任した。2011年(平成23年)、7期目の当選を果たす。
※この「愛知県議会議員へ」の解説は、「内田康宏」の解説の一部です。
「愛知県議会議員へ」を含む「内田康宏」の記事については、「内田康宏」の概要を参照ください。
- 愛知県議会議員へのページへのリンク