愛知石炭商会を起業
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義兄西井直次郎のつてで名古屋市正木町にあった名古屋紡績の関係者と知り合ったことからたびたび名古屋を訪れるようになり、やがて名古屋紡績関係などから3,000円の資金を借り入れて名古屋にて事業を起こすこととなった。港の関係から名古屋の南、愛知郡熱田町(1907年名古屋市に編入)の内田町に家を借りて1889年9月、「愛知石炭商会」を開業した。愛知石炭商会では九州の石炭を扱い、名古屋紡績のほか熱田にあった尾張紡績やセメント工場に納入した。紡績会社へは当初一般的な塊炭を納入していたが、鉄道局向けの塊炭を選別する際にふるい落とされる粉炭に目をつけ、これを取り寄せて紡績会社へと販売し始めた。粉炭の好調な売れ行きに民義は営業の自信をつけたという。 1897年(明治30年)頃、半期ほど名古屋紡績支配人を務めるが、重役間の暗闘を理由に辞職し元の石炭商に戻り、後に名古屋の資本家たちとは絶縁する。同時期、蔵内次郎作に融資し蔵内の九州峰地炭鉱の石炭を引き受けて、これを鉄道局へと納入し始めた。当時鉄道局への納入は一等炭を納入できる業者に限られていたが、民義は開業から10年に満たない間に鉄道局の石炭入札に参加できるようになっていた。 鉄道局の石炭入札には、北海道にて炭鉱や鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船)も参加していた。この北海道炭礦鉄道の石炭を民義は扱うこととなり、1899年(明治32年)頃より伊勢湾沿岸の地方へと販売し始めた。同社には当時、後に共同で電気事業を行うことになる福澤桃介が在籍しており、福澤が北海道より転任し東京にて売炭係主任となった1891年(明治24年)頃、石炭取引の関係から福澤と知り合った。1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、各地の船舶が徴用されて石炭を運搬する船舶が欠乏したが、福澤がスウェーデンの船舶3隻を借り入れて石炭運搬に充てたためこれの恩恵を受け、盛んに東洋紡績へと売り込んで利益を得た。
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