復権と再度の沈黙
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「アンナ・アフマートヴァ」の記事における「復権と再度の沈黙」の解説
1940年、なんの前触れもなく当局から詩集の刊行許可が下りる。実に17年ぶりに刊行された詩集のタイトルは『六冊の本から』で、これはアフマートヴァの過去六冊の詩集からの抜粋に新作を加えたものである。公的には存在を抹消されていた(すでに死去していると思っていた者も多かったという)詩人の新作は大きな話題を呼び、パステルナークが書簡で伝えるところによれば、書店の前の通りに行列ができるほどの売れ行きであったという。しかし、世間での好評とは関わりなく、当局から再び発禁処分が下され、図書館からも回収されてこの詩集は姿を消した。スターリンの圧政下に苦しむ人々の声を代弁した『レクイエム』の中から収録された二篇の詩が当局に目をつけられたためであるといわれている。 大祖国戦争(第二次世界大戦中の独ソ戦のこと。旧ソ連圏ではナポレオンを退けた祖国戦争にちなんでこう呼ぶ)のさなかには、レニングラード包囲戦の悪夢を目撃した彼女の愛国的な詩篇がプラウダの一面に掲載されることもあった。1944年に中央アジアへの疎開からレニングラード(現サンクトペテルブルク)へ戻ったアフマートヴァは、「私の街のふりをした恐るべき亡霊」の姿に愕然とした。 1946年8月14日、ソ連共産党中央委員会はジダーノフ批判として知られる言論弾圧を開始する。レニングラード(当時)で刊行されていた雑誌『星』と『レニングラード』の二誌を「思想の欠如した、イデオロギー的に有害な内容である」として攻撃したのである。主要執筆者であったアフマートヴァへの批判は苛烈を極め、ジダーノフはかつてボリス・エイヘンバウムが用いた「情熱に身を焦がす淫乱女か、あるいは神の赦しを請う修道女か」という比喩を歪曲し、アフマートヴァの詩は「気違いじみた女の自画像」であり、「売春と祈祷の混ぜ物」にすぎず、「青少年を害する」代物だとまでいい放った。こうしてアフマートヴァは再び長い沈黙を強いられることとなった。この時期のアフマートヴァが書くことを許されたのは、1949年にまたも逮捕された夫プーニンと息子レフの助命嘆願のための交換条件で執筆した、スターリンを賛美する詩『平和に栄光あれ』のみであった(もちろんそれですべての問題が片付くことなどありえず、プーニンは4年後に獄死した)。死を迎える1966年までの約20年にわたる沈黙の中で、『レクイエム』と同じく記憶の中で書き綴られたのが畢生の大作『ヒーローのない叙事詩』である。
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