復権と幕末政局への関与
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安政7年(1860年)に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、文久2年(1862年)に「悉皆御宥許(しっかいごゆうきょ=ことごとく許される)」の身となった。その年に上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられる。 文久3年(1863年)、茂徳が隠居して実子の元千代(義宜)が16代藩主に就任することとなり、附家老・成瀬正肥や、田宮如雲ら尊王攘夷派からの支持を背景に、慶勝はその後見として復権する。他方、慶勝に批判的な附家老・竹腰正富らに擁立されていた茂徳も家中に影響力を保持したため、文久期以降、尾張家は慶勝・茂徳の二頭体制の様相を呈し、対立・抗争を繰り広げることとなる。 復権後の慶勝はたびたび上洛して京都政局に関与する。その京都では文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託して八月十八日の政変が起こり、京から長州藩及び尊攘派の公卿ら(七卿落ち)が追放された。翌元治元年(1864年)に慶勝は、雄藩の最高権力者からなる参預会議への参加を命じられるが辞退した。 その年、長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変を引き起こすが、撃退された長州藩は朝敵となり、幕府が第一次長州征討を行うこととなる。征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した。しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。
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