復権と幕末政局への関与とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 復権と幕末政局への関与の意味・解説 

復権と幕末政局への関与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 01:51 UTC 版)

徳川慶勝」の記事における「復権と幕末政局への関与」の解説

安政7年1860年)に井伊直弼桜田門外の変暗殺されると、文久2年1862年)に「悉皆御宥許(しっかいゆうきょ=ことごとく許される)」の身となった。その年に上洛し、将軍徳川家茂補佐命じられる文久3年1863年)、茂徳が隠居して実子の元千代(義宜)が16藩主就任することとなり、附家老成瀬正肥や、田宮如雲尊王攘夷派からの支持背景に、慶勝はその後見として復権する。他方、慶勝に批判的な附家老竹腰正富らに擁立されていた茂徳も家中影響力保持したため、文久以降尾張家は慶勝・茂徳の二頭体制様相呈し対立・抗争繰り広げることとなる。 復権後の慶勝はたびたび上洛して京都政局関与する。その京都では文久3年1863年)に会津藩薩摩藩結託して八月十八日の政変起こり、京から長州藩及び尊攘派公卿ら(七卿落ち)が追放された。翌元治元年1864年)に慶勝は、雄藩最高権力者からなる参預会議への参加命じられる辞退した。 その年、長州藩京都軍事的奪回を図るため禁門の変引き起こすが、撃退され長州藩朝敵となり、幕府第一次長州征討を行うこととなる。征討総督には初め紀州藩主徳川茂承任じられたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩恭順したため、慶勝は寛大な措置取って京へ凱旋した。しかしその後長州藩は再び勤王派が主導権握ったため、第二次長州征討決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた長州藩秘密裏薩摩藩同盟結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地破った

※この「復権と幕末政局への関与」の解説は、「徳川慶勝」の解説の一部です。
「復権と幕末政局への関与」を含む「徳川慶勝」の記事については、「徳川慶勝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「復権と幕末政局への関与」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「復権と幕末政局への関与」の関連用語

1
12% |||||

復権と幕末政局への関与のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



復権と幕末政局への関与のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川慶勝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS