復権と尾州家の躍進とは? わかりやすく解説

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復権と尾州家の躍進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:51 UTC 版)

畠山稙長」の記事における「復権と尾州家の躍進」の解説

天文10年1541年)、晴元や長教と仲違いし長政反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し、晴満と在氏を追放湯川衆・熊野衆・根来寺高野山などを糾合した3万という軍勢高屋城回復畠山氏当主復帰した孤立した長政は稙長・長教・三好長慶三好政長によって討伐され、翌天文11年1542年)の太平寺の戦いにおいて戦死したこの頃総州家中核木沢氏勢力極めて依拠しており、長政死によって総州家は再び大きく力を落とすことになる。 再度一つ勢力になった畠山稙長遊佐長教はこの混乱乗じて飯盛山城畠山在氏和泉守護代の松浦守討伐する計画立てる。 木沢長政の乱に対して畠山在氏長政父の木沢浮泛長政弟の木沢中務大輔木沢左馬允積極的に加担せず、飯盛山城に籠もっており、在氏は左馬允赦免幕府願っており、幕府庇護受けようとしていたが、稙長方はこれに対し飯盛山城攻撃加えている。 一方和泉では既に長政の乱に連動して牢人入国企てるなど混乱起こっており、和泉守護代の松浦守4月頃には堺で蟄居していた。 この状況下で遊佐長教被官である行康忠7月25日付の書状では、大和勢が飯盛山城攻撃の準備始め飯盛北の交野には大和国衆の鷹山弘頼が居陣し一方で和泉は稙長自身も自ら出陣しようとし、老衆が引き留めているも、決心変わりはないため、根来寺一山味方にし出立し筒井順昭高屋城に在陣したと書かれている実際に畠山稙長遊佐長教松浦氏退治のため大人数出撃し、筒井順昭高屋城留守役で入ったされ、尾州家側の戦略を伺わせている。 また、稙長は松浦対立する玉井三河守守護代擁立し和泉制圧図っていた。 飯盛山城その後天文12年1月頃には落城し、河内尾州家によって統一される。在氏はその後尾州家謀反受けて晴元方に帰参したが、もはや尾州家敵対しうる勢力ではなくなっており、この後畠山氏内訌尾州家内部争い中心になることになる。 しかし、和泉に対して松浦氏玉井に対して反撃始め、これに対し更に稙長に庇護されていた細川氏綱玉井氏を取り立てて堺で挙兵し、「細川氏綱の乱」と呼ばれる争乱勃発することになる。 天文12年7月には細川晴元和泉守細川晴貞依頼受けて松浦氏擁護し玉井退治姿勢明確にし、稙長・長教は氏綱が妹婿であるため内心では同意しているもの、晴元方と正面から敵対することを躊躇ったためか、この時は結局どちらの陣営にも加勢する様子見せず玉井氏は敗北した以降も氏綱方は和泉戦闘続けるが、尾州家側の合力停止したため、10月には沈静化することになる。

※この「復権と尾州家の躍進」の解説は、「畠山稙長」の解説の一部です。
「復権と尾州家の躍進」を含む「畠山稙長」の記事については、「畠山稙長」の概要を参照ください。

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