復権と尾州家の躍進
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天文10年(1541年)、晴元や長教と仲違いした長政が反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し、晴満と在氏を追放、湯川衆・熊野衆・根来寺・高野山などを糾合した3万という軍勢で高屋城を回復、畠山氏の当主に復帰した。孤立した長政は稙長・長教・三好長慶・三好政長によって討伐され、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて戦死した。この頃の総州家の中核は木沢氏勢力に極めて依拠しており、長政の死によって総州家は再び大きく力を落とすことになる。 再度一つの勢力になった畠山稙長・遊佐長教はこの混乱に乗じて、飯盛山城の畠山在氏・和泉守護代の松浦守を討伐する計画を立てる。 木沢長政の乱に対して畠山在氏や長政父の木沢浮泛、長政弟の木沢中務大輔・木沢左馬允は積極的に加担せず、飯盛山城に籠もっており、在氏は左馬允の赦免を幕府に願っており、幕府の庇護を受けようとしていたが、稙長方はこれに対し、飯盛山城に攻撃を加えている。 一方、和泉では既に長政の乱に連動して牢人が入国を企てるなど混乱が起こっており、和泉守護代の松浦守は4月頃には堺で蟄居していた。 この状況下で遊佐長教の被官である行松康忠の7月25日付の書状では、大和勢が飯盛山城攻撃の準備を始め、飯盛北の交野には大和国衆の鷹山弘頼が居陣し、一方で和泉は稙長自身も自ら出陣しようとし、老衆が引き留めているも、決心に変わりはないため、根来寺一山を味方にし出立し、筒井順昭が高屋城に在陣したと書かれている。実際に畠山稙長・遊佐長教が松浦氏退治のため大人数で出撃し、筒井順昭が高屋城に留守役で入ったされ、尾州家側の戦略を伺わせている。 また、稙長は松浦と対立する玉井三河守を守護代に擁立し、和泉の制圧を図っていた。 飯盛山城はその後、天文12年1月頃には落城し、河内は尾州家によって統一される。在氏はその後の尾州家の謀反を受けて晴元方に帰参したが、もはや尾州家と敵対しうる勢力ではなくなっており、この後の畠山氏の内訌は尾州家内部の争いが中心になることになる。 しかし、和泉に対しては松浦氏が玉井氏に対して反撃を始め、これに対し更に稙長に庇護されていた細川氏綱が玉井氏を取り立てて堺で挙兵し、「細川氏綱の乱」と呼ばれる争乱が勃発することになる。 天文12年7月には細川晴元が和泉守護細川晴貞の依頼を受けて松浦氏を擁護し玉井退治の姿勢を明確にし、稙長・長教は氏綱が妹婿であるため内心では同意しているもの、晴元方と正面から敵対することを躊躇ったためか、この時は結局どちらの陣営にも加勢する様子は見せず、玉井氏は敗北した。 以降も氏綱方は和泉で戦闘を続けるが、尾州家側の合力が停止したため、10月には沈静化することになる。
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