復権と策謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 17:21 UTC 版)
ジェーンは夫の死後しばらく宮廷から遠ざかった。宮廷を離れていた間、ジェーンは自身の経済的な保障を確実なものにしようと、義父トマス・ブーリンや、王の首席大臣トマス・クロムウェルと長く交渉を行った。結局、トマスは年額100ポンドという高額の年金を嫁ジェーンに与えることを決めたが、これは8年前から寡婦となっていた長女メアリーに与えていた年金と同額であった。この年金額は、ジェーンが王妃の義妹として宮廷の中心人物だった頃に消費していた大枚の金とは較べものにならなかったが、上流階級の慎ましやかな生活を維持して行くには十分な額だった。何よりこの年金は、宮廷に戻って生活するためには不可欠だったため、ジェーンは1536年から1537年にかけて年金が得られるよう懸命な働きかけを続けた。ジェーンが宮廷に舞い戻った正確な時期は不明だが、アン・ブーリンの後釜となったジェーン・シーモア王妃の女官に名を連ねていたことから見て、夫の死後1年以内に宮廷に戻っていたと考えられる(ジェーン・シーモアはヘンリー8世と結婚して18か月後には死亡しているためである)。子爵夫人の称号を持つ彼女には多くの召使いが付けられ、王宮に部屋を与えられ、何より「レディ・ロッチフォード」の尊称で呼ばれる待遇を受けた。そして王妃の家政機関の経費で、豪勢な食事にありつくことも出来た。 ジェーン・シーモアの死後、ヘンリー8世はトマス・クロムウェルの推薦するドイツ人の公女アン・オブ・クレーヴズを4番目の王妃に迎えた。そして1540年7月、ジェーン・ロッチフォードはアン・オブ・クレーヴズ王妃から王との肉体的な婚姻は成立していないと打ち明けられたと証言し、王と彼女の離婚の成立に手を貸した。これによりヘンリー8世はアン・オブ・クレーヴズと離婚することが可能になり、十代の愛妾キャサリン・ハワードと5度目の結婚をした。4度目の結婚の失敗に対する王の不満と怒りは外国人の妻ではなく結婚を勧めた大臣クロムウェルに向けられ、クロムウェルは斬首された。ヘンリー8世は離婚後もアン・オブ・クレーヴズとは友人付き合いを続けた。 ジェーン・ロッチフォードは次々と交替した3人の王妃たちの下で常に王妃私室付き女官の地位を保ち、未熟なキャサリン・ハワード王妃の時代になると大きな影響力を発揮して、王妃の寵臣の1人となった。若い王妃が年老いた肥満体の夫ヘンリー王の相手に飽きると、ジェーンは王妃とハンサムな王の近習トマス・カルペパーを引き合わせ、2人を密会させるようになった。王妃とカルペパーの情事は1541年の北部巡幸の際もジェーンの差配によって秘かに続けられていた。しかし同年秋、王妃の結婚前の男性遍歴が暴露されると、王妃の私生活が取り調べられることになった。最初、キャサリン・ハワード王妃は私室に幽閉されたが、後に王宮から離れた旧サイオン修道院(英語版)に身柄を移された。王妃の侍女や寵臣たちが尋問され、王妃の私室が家宅捜索を受けた。多くの召使いや侍女たちが、キャサリンとカルペパーの密会におけるレディ・ロッチフォードの不審な振る舞いについて証言した。これにより、ジェーン自身も拘留されて容疑者となってしまう。結局、キャサリン王妃がカルペパーに送ったラブレターが発見され、そこには2人の逢引きをレディ・ロッチフォードが差配していたことがはっきりと記されていた。これはイングランドの法律では大逆犯隠匿罪(英語版)に相当し、テューダー朝時代には死刑が相応の量刑であった。ジェーンは政府が彼女の罪状と裁判開始の時期を決めるまでの数か月間、ロンドン塔に収監されることになった。
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