復権と最期とは? わかりやすく解説

復権と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)

司馬穎」の記事における「復権と最期」の解説

305年7月司馬穎の旧将の公師藩は、司馬穎復権掲げて趙・魏の地で挙兵すると、河北の民はこれに呼応した同じく司馬穎の旧将であった・郝昌らも乱に加わり、その兵は数万数えた公師藩は郡県を攻略し転戦しながら鄴城に迫った司馬顒公師藩司馬穎のために兵を挙げた知り司馬穎復職させ、鎮軍大将軍都督河北諸軍事に推挙して千人与え盧志と共に鄴城の鎮守命じた8月司馬越司馬虓らが司馬顒討伐兵を挙げると、豫州刺史劉喬がこれを阻んだ10月司馬顒司馬穎命じ将軍褒らを従えて劉喬援護命じた12月司馬穎洛陽入ったが、司馬越勢い恐れてこれ以上東へ進めなかった。 306年1月司馬穎洛陽から再び長安向かい弘農郡華陰県入った。だが、この時司馬顒が張方殺して司馬越和親図っているとしていると知り西進中止した8月司馬穎司馬顒敗北を知ると、武関から義陽郡新野県逃走した恵帝南中郎将劉陶荊州刺史劉弘司馬穎逮捕命じた。この時、劉弘病没し、司馬郭勱は乱を起こして司馬穎迎え入れようとしたが、治中郭舒は劉弘の子である劉璠奉じて郭勱を討伐した。その為、司馬穎は母や妻を棄て単車に子の廬江王司馬普と中都王司馬廓を乗せ、北の黄河渡って朝歌逃走した。そして、かつての部下数百人を集めて公師藩頼ろうとした。 9月頓丘郡太守馮嵩により司馬穎捕らえられ、鄴城に送られた。だが、司馬虓司馬穎を殺すことができず、幽閉した。また、公師藩らは兗州刺史苟晞討たれた。 10月司馬虓急死すると、長史劉輿は鄴の人々司馬穎境遇同情していた事から、変事起きることを恐れた。その為、劉輿司馬虓の喪を秘匿し、鄴台(司馬虓)からの使者だと偽って司馬穎の下へ派遣すると、詔と称して司馬穎自殺命じたその夜司馬穎守衛の田徽へ「范陽王は亡くなったのか」と問うと、田徽は「知りません」と答えた。さらに司馬穎は「卿は幾つかね」と聞くと、「50です」と答えたまた、天命とは何か分かるかね」と問いかけると、「知りません」と返した司馬穎嘆息して「我の死後天下安定するかそれとも乱れたままか。我が放逐され3年経過するが、身体手足を全く洗沐していない湯水を数斗持って来たまえ!」と叫んだという。司馬穎2人の子号泣すると、司馬穎は人を遣って子供だけでも逃がそうとしたが、失敗して殺された。司馬穎は髪を解き、頭を東に向けて横になると、田徽に首を絞められ殺された。享年28であった。鄴城は哀しみ包まれたという。

※この「復権と最期」の解説は、「司馬穎」の解説の一部です。
「復権と最期」を含む「司馬穎」の記事については、「司馬穎」の概要を参照ください。

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