復権と昇格
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「ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)」の記事における「復権と昇格」の解説
1485年8月、ヘンリー・テューダーの軍勢に加えられイングランドに上陸、8月22日のボズワースの戦いで前線指揮官として活躍した。名目上の指揮官はヘンリー・テューダーだったが、事実上は最も経験豊富なランカスター派の貴族として、オックスフォード伯が戦闘指揮を執った。オックスフォード伯は中央軍を指揮し、戦闘の序盤ではヨーク派のノーフォーク公ジョン・ハワードの軍が下り坂を突撃してくるのを防いだ。やがてヨーク派の軍勢が裏切りで壊滅、リチャード3世は乱戦の中討ち取られ、勝利したヘンリー・テューダーが国王ヘンリー7世として即位、テューダー朝が開かれた。 この戦勝の後、オックスフォード伯は元の所領と称号に復しガーター勲章を授けられ、ベッドフォード公ジャスパー・テューダー、ダービー伯トマス・スタンリーと共に重用され、海軍司令長官とロンドン塔の管理者にも任命された。だが、戦いの日々は終わらなかった。ヘンリー7世の治世の初期に、ヨーク派の後継を自称する人間が2人もイングランドを荒らしたからである。オックスフォード伯は1486年にウスターシャーの陰謀を摘発、続く1487年6月にランバート・シムネルを擁立したリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを討つためストーク・フィールドの戦いで前衛(実際に戦わなければならなかった国王軍の唯一の部隊)を指揮しリンカーン伯を討ち取った。ブラックヒース(Blackheath)の戦いでは最高司令官であった。 こうした戦功の積み重ねでノーフォークを中心とするイースト・アングリアの統轄を任されるまでになり、1487年3月にノーフォークを行幸したヘンリー7世を歓迎した。出世を果たしたオックスフォード伯は旧知のパストン家も重用、ジョン・パストンの同名の弟ジョン・パストン(英語版)をノーフォークとサフォークの州長官と領地の管理者に取り立て、海軍司令長官の副官にも任命した。2人の弟エドマンドとウィリアムも秘書に採用され働いたが、ウィリアムは1503年に精神病にかかり辞職を余儀無くされている。 1514年、70歳で死去。2度結婚したが、最初の妻マーガレット、2度目の妻エリザベスの間に子供が生まれなかったため、甥で同名のジョン・ド・ヴィアーが第14代オックスフォード伯を継承した。ただし、庶子にキャサリンという1人娘があり、サー・ロバート・ブロートンと結婚して外孫ジョン(1488年頃 - 1518年)を儲けた。ジョンの娘で曾孫キャサリンはウィリアム・ハワードと結婚、子孫はポーレット家に嫁ぎウィンチェスター侯爵として続いていった。
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