復権と昇格とは? わかりやすく解説

復権と昇格

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 02:42 UTC 版)

ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)」の記事における「復権と昇格」の解説

1485年8月ヘンリー・テューダー軍勢加えられイングランド上陸8月22日ボズワースの戦い前線指揮官として活躍した名目上指揮官ヘンリー・テューダーだったが、事実上は最も経験豊富ランカスター派貴族として、オックスフォード伯戦闘指揮を執った。オックスフォード伯中央軍指揮し戦闘序盤ではヨーク派ノーフォーク公ジョン・ハワードの軍が下り坂突撃してくるのを防いだ。やがてヨーク派軍勢裏切り壊滅リチャード3世乱戦の中討ち取られ勝利したヘンリー・テューダー国王ヘンリー7世として即位テューダー朝開かれた。 この戦勝の後、オックスフォード伯は元の所領称号復しガーター勲章授けられベッドフォード公ジャスパー・テューダーダービー伯トマス・スタンリーと共に重用され海軍司令長官ロンドン塔管理者にも任命された。だが、戦い日々は終わらなかった。ヘンリー7世治世の初期に、ヨーク派後継自称する人間2人イングランド荒らしたからである。オックスフォード伯1486年ウスターシャー陰謀摘発、続く1487年6月ランバート・シムネル擁立したリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを討つためストーク・フィールドの戦い前衛実際に戦わなければならなかった国王軍唯一の部隊)を指揮しリンカーン伯討ち取ったブラックヒースBlackheath)の戦いで最高司令官であったこうした戦功積み重ねノーフォーク中心とするイースト・アングリア統轄任されるまでになり、1487年3月ノーフォーク行幸したヘンリー7世歓迎した出世果たしたオックスフォード伯旧知のパストン家も重用、ジョン・パストンの同名の弟ジョン・パストン(英語版)をノーフォークサフォークの州長官領地管理者取り立て海軍司令長官副官にも任命した2人の弟エドマンドウィリアム秘書採用され働いたが、ウィリアム1503年精神病にかかり辞職余儀無くされている。 1514年70歳死去2度結婚したが、最初の妻マーガレット2度目の妻エリザベスの間に子供生まれなかったため、甥で同名ジョン・ド・ヴィアー第14代オックスフォード伯継承した。ただし、庶子キャサリンという1人娘があり、サー・ロバート・ブロートンと結婚して外孫ジョン1488年頃 - 1518年)を儲けたジョンの娘で曾孫キャサリンウィリアム・ハワード結婚子孫ポーレット家に嫁ぎウィンチェスター侯爵として続いていった。

※この「復権と昇格」の解説は、「ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)」の解説の一部です。
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