復権と大統領三選
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急進市民同盟のリカルド・バルビンとペロン(1972年) ペロン夫妻とルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻(1974年) チリのアウグスト・ピノチェト大統領と(1974年) ペロン本人は亡命したものの、アルゼンチンの政情は不安定なままで、モントネーロスやペロニスタ武装軍団などの都市ゲリラが跋扈し、経済状況も悪化したままの状態を続けることとなる。この様な状況を受けて、ペロンの亡命後もペロニスタがアルゼンチン国内で影響力を持ち続ける。 ペロンの失脚後、混迷するアルゼンチンの政局を打開するため、大統領だったアレハンドロ・ラヌーセ将軍はペロン党の出馬を認めた選挙を1973年3月11日に実施した。この選挙でペロン党は勝利し、エクトール・カンポラが大統領に就任した。 しかし、カンポラの就任直後からペロニスタ内部での左派と右派の抗争が激化し、ペロンの帰国を歓迎する空港での集会で両派が死者を出す事態に発展すると、唯一全ペロニスタを統率できる人物として、再びペロン本人が脚光を浴びることとなった。 亡命から18年近く経った1973年7月にカンポラの辞任を受け、ペロニスタ達はペロンに帰国して大統領選挙に出馬することを要請した。帰国したペロンは9月に行われた大統領選に勝利し同年の10月に三たび大統領に就任した。副大統領には自らの妻であるイサベル(イサベリータ)を任じるが、既に78歳となっていたペロンに混迷するアルゼンチンをまとめ切るだけの指導力はなく、かつての軍事政権が行っていた治安政策を取りペロニスタの左翼過激派を追放した。
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