復帰までの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/27 05:25 UTC 版)
「モンティ・ストラットン」の記事における「復帰までの道」の解説
1938年11月27日にテキサス州グリーンビル(英語版)近くの母親が所有する農場でウサギ狩り(英語版)をしていたストラットンは小川に向かう下り坂で滑って転倒してしまい、その拍子に誤って猟銃を暴発させてしまった。暴発弾は彼の右足に当たり、農場の家の前で倒れているところを家族の者に発見された。大腿動脈の損傷がひどかったために翌日には感染を防ぐために右足の切断手術を受けた。 1939年5月1日にホワイトソックス球団はコミスキー・パークにおいて、シカゴ・カブスとの慈善試合を主催した。この試合に登板したストラットンは装着するようになった義足にまだ重心を効果的に移動させられなかったが、投球自体は可能であることを実証し、試合の収益金の約28,000ドルを手にした。ストラットンは義足にも関わらず、1940年になってもMLBへの復帰を諦めていない考えを明らかにしている。 事故後の3シーズンは現役復帰を目指してシカゴ・ホワイトソックスで打撃投手兼一塁コーチとして働いた。1942年シーズンは短期間に終わったが、マイナーリーグ(MiLB)・D級球団の監督を務めた。 第二次世界大戦への従軍を志願したが、拒否された。その後にグリーンビルでセミプロチームを編成した。義足でも上手く重心移動をして投球出来るようにするにはどうしたら良いかという点を研究するために、主に妻のエセルを捕手役として投球を受けさせ、野球場やリビングルームで常に誰かと組んで共同で練習を行った。 1946年4月27日にMiLB・C級シャーマン(英語版)でプロ野球復帰を果たし、このシーズンは最終的には防御率4.17・18勝8敗を記録した。ストラットンの復活劇に野球関係者は驚嘆した。フィラデルフィア・スポーツ記者協会(英語版)によって「1946年の最も勇気のあるアスリート」に選定された。翌1947年シーズンはMiLB・B級ウェーコで防御率6.55・7勝7敗を記録した。MLBへの復帰はついに果たせなかった。MiLBでは1949年、1950年、1953年シーズンも様々な階層のリーグでプレーしたが、合わせて8試合のみの登板にとどまった。ストラットン自身はバント処理は上手くこなしたが、躍動感のあるフォームでは投球出来なかったので、怪我前の速球は投げられなくなったと述べている。 MLBで投げた経験のある片足投手はストラットン以外にもう一人、バート・シェパード(英語版)がいる。シェパードは第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空隊の一員であったが、搭乗していた戦闘機『P-38ライトニング』がドイツ上空で撃墜され、右足を失った。その後の1945年8月4日にワシントン・セネタースでリリーフとしてデビューを飾るが、MLBでの登板はこの1試合のみに終わっている。
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