御伽草子版
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『宝物集』で記された金礫の説話が御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』などの田村語りに採り入れられると、金礫を打つこの化生の名前として、こんざう、りゃうせん(りょうせん)などがみえる。『田村の草子』によるあらすじは次のとおりである。 大和国奈良坂に金礫を打つりょうせんという化生の者が現れて都への貢ぎ物や多くの人の命を奪ったので、帝は稲瀬五郎坂上俊宗に鬼退治の宣旨を下した。俊宗は500騎の兵を連れて奈良坂へと向かい、良い小袖を木々の枝に掛け並べてりょうせんを待った。すると背丈が2丈(約6メートル)もある異様な風体の法師が現れ、並び立てた着物を置いていけと大笑いする声が聞こえた。俊宗が着物を渡すわけにはいかないというと、法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた。りょうせんは山へと逃げはじめるが、俊宗が三代に渡って受け継いできた神通の鏑矢を射放つと7日7夜に渡ってりょうせんを追い続け、りょうせんはついに降伏する。りょうせんを捕縛した俊宗は都へと凱旋して御門に閲覧し、りょうせんは船岡山で処刑されることとなった。その首は8人ががりで切り落とされて獄門にかけられ、行き交う者たちにさらされた。
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御伽草子版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:27 UTC 版)
御伽草子版としては、渋川清右衛門が出版した御伽文庫版(1720年)が江戸時代に広く伝搬した。以下、その御伽文庫(渋川刊)より、梗概を説明する。 京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、討伐に向かった。 この稿本では、武者たちみずから戦術を練り、山伏姿に扮することも考案し、甲冑・武器(ここではそれらの名前が挙げられる)笈に隠すことにする。また、一行がまず出会って鬼共の内部事情を教わる洗濯女は、ここでは老婆でなく年齢17、8の女性で、花園の中納言の一人娘である。 一行は山伏(修行僧)と偽って酒呑童子の饗応を受け、童子は自分の身の上を語りだす。ここでは童子は「本国は越後の者」と明かし、比叡山にいたが伝教大師(既出。最澄)によってそこを追われ、この峰(大江山)に住んだが、今度は弘法大師に追放された。しかし空海が高野山で亡くなった後、舞戻ってきた、と語りだす 頼光らは、さらに姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、神よりもらった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いた。 酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。
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