強制送還と投獄、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 14:50 UTC 版)
「コンスタンティン・パッツ」の記事における「強制送還と投獄、そして死」の解説
1940年7月30日、息子のビクター、ビクターの妻ヘルチ・アリス、孫のマッティとヘンとともに、パッツはバシキール自治ソビエト社会主義共和国の首都ウファに送還され、8月9日に到着した。ここで一家は監視付の大きな住居で1年間過ごした。この期間、パッツは在職中の回顧録を執筆する一方、孫のヘンが既に体調を崩していたことから、孫らとその母をスイスかイタリアに送還してくれるよう嘆願した。返事がもらえなかったため、せめてエストニアに戻してくれるようにと再度嘆願した。終いには、素朴にもドイツで収監されているドイツ共産党の元党首、エルンスト・テールマンと自身を交換するようにとも嘆願した。その後パッツは口を閉ざしたが、一方で息子のビクターはナチス・ドイツがソ連を侵略して彼らを解放してくれると確信していた。 1941年5月19日、一家はウファの市場で「偶然」エストニア人の夫婦と出くわし、次の日、彼らは夫婦の家に招かれた。しかし夫婦はどちらもNKVDの工作員であり、パッツとビクターはどちらも「ヨシフ・スターリンやヴャチェスラフ・モロトフに対して顕著な憎悪を示している。なおかつナチズムに賛同し、ドイツのソビエト侵略を今や遅しと待望している。」と報告された。 1941年6月26日、パッツらは逮捕されてウファで投獄された。孫らは孤児院に送られた。パッツは何時間も取り調べを受けたが、ついに罪状は挙げられなかった。1942年5月になっても、彼は西側からの圧力がソ連をして彼を解放せしめると信じていた。ところが、彼とビクターはモスクワのユリラカ刑務所に送られた。ユリラカ刑務所において、囚人番号11はヨハン・ライドネル、12はパッツ、ビクターは13番だった。ヘルチ・アリスはシベリアのグラーク、すなわち強制労働収容所に送られた。 1943年5月24日、パッツは最初にカザンの、次いでタタール自治ソビエト社会主義共和国チストポリの精神病院に収容された。この強制入院は「自身がなおエストニアの大統領であると繰り返し主張する」という理由で正当化された。1952年4月29日、パッツは刑法58条14項、および58条10項によって有罪とされた。すなわち反革命的サボタージュと、反ソビエト・反革命的宣伝・扇動の容疑であった。1954年、パッツはジェイムジャラ(ドイツ語版)の精神病院へと移送され、13年ぶりに祖国の土を踏んだ。しかし、地元の民衆の歓迎と大きな関心がパッツをソビエトに戻す原因となり、カリーニン州(現在のトヴェリ州)のブラシェヴォ精神病院へ送られる。1956年1月18日の水曜日、81年におよぶ波瀾の生涯を終えた。
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