引用されたモーツァルトの音楽
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「モオツァルト (小林秀雄)」の記事における「引用されたモーツァルトの音楽」の解説
1 ドン・ジョヴァンニ (罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ)K.527 1787年31歳の作曲。プラハ初演。台本はロレンツォ・ダ・ポンテ。最後にドン・ジョヴァンニが地獄に落ちる場面が一番の見せ場。 2 ト短調シンフォニイ K.550 モーツァルトには短調の交響曲が2つある(どちらもト短調)。楽譜があげられているのは第40番。1788年32歳の作。初演は不明。演奏をモーツァルトが聴いたという記録はない。 6 「退屈しのぎに四重奏を書いている」 1772年16歳時に彼はミラノで6曲の弦楽四重奏(K.155-K.160)を作曲した。旅に出てすぐの手紙なので、最初の二長調 K.155と思われる。 「六つでメニュエットを作った」 1761-1762年。クラヴィアのためのメヌエット ヘ長調 K.1d, ト長調 K.1e, ハ長調 K.1f, ヘ長調 K.2, ヘ長調 K.4, ヘ長調 K.5 1772年の一群のシンフォニイ 16歳時の交響曲第15番ト長調 K.124から交響曲第21番イ長調 K.134までの7曲。イタリア旅行へ出る前の作曲。 六つの弦楽四重奏曲 K.387-K.465 第14番ト長調 K.387から第19番ハ長調 K.465まで。 1782年(26歳)-1785年(29歳)の作。これを聞いたハイドンから、「ご子息は、私が名実ともに知る限りの最高の作曲家です。」と言われたと、父レオポルト・モーツァルトが伝える。 フィガロの結婚 K.492 原作は『セビリアの理髪師』の続編として1778年にフランスでカロン・ド・ボーマルシェが作。台本化はロレンツォ・ダ・ポンテ。1786年30歳で作曲、ウィーンで初演。プラハでヒットし、作者が招かれ、新作オペラの注文を受けた。それが『ドン・ジョヴァンニ』。 9 パリに於ける自分のシンフォニイ 交響曲第31番「パリ」 K297 1778年22歳の作。パリの演奏団体コンセール・スピリチュエルから注文され、母親が亡くなる2週間前の6月18日に初演された。 ト短調クインテット、K.516 1787年31歳の作。これを完成した2週間後に父レオポルト・モーツァルトが病死した。 10 三十九番シンフォニイ K.543 変ホ長調。1788年32歳の作。 四十一番シンフォニイ K.551 ハ長調。1788年32歳の作。「ジュピター」とも呼ばれる。最後の交響曲。 ハ調クワルテット(K.465) ハイドンにささげられた弦楽四重奏曲の6曲め。1785年29歳の作。 コジ・ファン・トゥッテ 女はみんなこうしたもの K.588 1790年34歳の作。ウィーン初演。ロレンツォ・ダ・ポンテの台本によるオペラ3作め。ダ・ポンテのオリジナル作品と見なされる。 11 アヴェ・ヴェルム まことのおからだ K.618 1791年35歳の作。妻コンスタンツェが夏にバーデンで養生したため、彼女の世話をしてくれたアントン・シュトールと彼の教会のために書いた、約3分の合唱曲。 魔笛 K.620 1791年35歳で制作したドイツ語オペラ。ウィーンで初演。台本は興行主兼パパゲノ役のシカネエダア作。パパゲノは脇役だが一番の人気役。タミノはこの劇の主役だが影が薄い。モノスタトスは奴隷頭。 鎮魂曲 K.626 1791年夏に匿名の依頼主から注文された。モーツァルトが1791年12月に死んだ時には未完成だった。妻コンスタンツェが弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーに依頼し完成。
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