廻国修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:53 UTC 版)
弘化4年(1847年)4月より嘉永2年(1849年)まで廻国修行に出て全国を巡る。この廻国修行中に久留米藩の加藤田平八郎(加藤田神陰流)の道場や柳河藩の大石進(大石神影流)の道場にも立ち寄り、試合をしている。 廻国修行中の嘉永2年(1849年)5月に大村藩を訪れ、大村藩士と試合をしたが、大村藩士の実力は新太郎に及ばなかった。これが弟の歓之助が大村藩の剣術師範として召し抱えられ、大村藩の剣術の主流が神道無念流に変わる契機となった。 同年6月には長州藩の萩を訪れ、長州藩の片山流師家の北川家、新陰柳生流師家の馬木家・内藤家・平岡家の道場でそれぞれ試合をしたが、誰一人、新太郎に及ばなかった。この結果を見た家老の浦靫負は神道無念流を高く評価し、浦家の家臣数名を江戸に送り、練兵館に入門させた。 一方、新太郎が長州藩士の剣術の稽古を見て「黄金の鳥籠に雀を飼っているようなものだ」と発言し、これに怒った長州藩士・来島又兵衛ら十数名が江戸へ行き、練兵館に試合を挑み、新太郎は廻国修行中で不在であったため弟の歓之助が相手になり、得意の突きで長州藩の剣士たちを倒したとされるが、長州藩の史料にはそのような記録は無い。 嘉永5年(1852年)、長州藩からの招きで新太郎は門人を伴い再び萩へ赴いた。その途中、越前の大野藩に立ち寄った。大野藩では前年の嘉永4年(1851年)に神道無念流を採用し、他流試合も解禁していたが、新太郎の来訪をきっかけに竹刀打込稽古が盛んになった。 8月に萩に到着した新太郎は、藩校・明倫館で指導した。この時の新太郎は前回と異なり試合に勝ったり負けたりで、勝敗にこだわらず指導することを重視していたという。この時新太郎に同行した門人の久保無二三は後に長州藩に仕官した。 翌9月に新太郎が江戸に帰る際、長州藩に有能な剣士3名を江戸へ留学させるよう進言した。これに対し長州藩は藩の剣術師家から1名ずつ選ばれた者計4名を1年間江戸へ留学させることとした。新太郎が最初に選んだ3名のうち、馬木家門下の山田孫太郎は家族の病気のため同門の財満新三郎に代わり、内藤家門下の河野右衛門と永田健吉は1名という枠のためどちらかが留学できなくなるところだったが、特例で内藤家から2名が留学することになった。平岡家・北川家からも各1名が選ばれ、さらに自費で3年間留学する桂小五郎、井上壮太郞を加えた計7名が江戸に留学することになった。桂はその後練兵館を代表する剣豪となる。
※この「廻国修行」の解説は、「斎藤新太郎」の解説の一部です。
「廻国修行」を含む「斎藤新太郎」の記事については、「斎藤新太郎」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から廻国修行を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から廻国修行 を検索
- 廻国修行のページへのリンク