庶民院議員に当選
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「庶民院議員に当選」の解説
トランスヴァール共和国首都プレトリアを占領したことによる戦勝ムードの中、首相ソールズベリー侯爵と植民地相チェンバレンは、いま解散総選挙すれば有利な議会状況を作れると踏んで、1900年9月1日に総司令官ホレイショ・キッチナー将軍にトランスヴァール併合宣言を出させるとともに、9月25日に議会を解散した。こうして「カーキ(軍服の色)選挙」と呼ばれた解散総選挙が行われた。 チャーチルはこの総選挙に再びオールダム選挙区から保守党公認候補として出馬した。今度の選挙は、捕虜収容所からの脱走劇で名前が売れていたチャーチルが有利であった。与党(保守党と自由統一党)の選挙戦を取り仕切っていた植民地大臣チェンバレンもチャーチル応援のため選挙区入りしてくれた。 選挙結果は自由党候補アルフレッド・エモット男爵が最も得票したものの、チャーチルも第2位の得票を得て、オールダム選挙区2議席を選出するため、チャーチルも次点当選できた。こうしてチャーチルは26歳にして庶民院議員となった。 総選挙全体の結果も与党保守党と自由統一党が野党自由党とアイルランド国民党(英語版)に134議席差をつけて勝利した。 チャーチルは翌年、自由党のジャスパー・ウィルソン・ジョーンズ議員の娘マーベル(夫は日本の初代首相伊藤博文の法制顧問のピゴット)が1896年に設立していた植民地看護協会への支援を表明した。 講演会と処女演説 保守党の庶民院議員となったチャーチルはイギリス各地で講演会を行い、1900年末にはアメリカや英領カナダでも講演会を開いて金を稼いだ。講演会はかなりの収入にはなったが、アメリカ人の聴衆のうちアイルランド系アメリカ人は反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もボーア人寄りの人が多かった。 そのためチャーチルもボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャーチルも侵略戦争であることは否定できず、「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従うしかない」と弁明した。 1901年1月にヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世が国王に即位した。チャーチルは、新国王のもとで1901年2月から開会された庶民院に初登院した。 チャーチルの処女演説は、自由党急進派でボーア戦争に反対するデビッド・ロイド・ジョージ議員の激しい反戦論に対抗して、政府を擁護するものだった。ただその演説の中でチャーチルは「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう」とボーア人を擁護するかのような発言も行い、植民地大臣チェンバレンをいらだたせた。 1901年5月24日にはフリーメイソンに加入している。
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庶民院議員に当選
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「庶民院議員に当選」の解説
1853年8月、保守党候補としてスタンフォード選挙区(英語版)から庶民院議員選挙に出馬した。対立候補が立たなかったため、無投票当選を決め、23歳にして庶民院議員となった(以降15年にわたりこの選挙区で無投票再選し続ける)。 ロバート卿は、1854年4月7日の庶民院で処女演説を行い、与党ホイッグ党の領袖ジョン・ラッセル卿のオックスフォード大学改革案を批判した。演説を聞いたウィリアム・グラッドストン蔵相はロバート卿を敵ながら将来有望な議員と注目したという。 [先頭へ戻る]
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