広沢虎造の空前のブーム
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「清水次郎長 (講談)」の記事における「広沢虎造の空前のブーム」の解説
浪曲化については、初代玉川勝太郎が先に取り掛かり、得意芸としており、2代目玉川勝太郎は『次郎長伝』を継承したが、1922年(大正11年)に襲名した同じ三尺物を得意とするライバル、二代目広沢虎造に人気を奪われる事になる。 三代目伯山の『次郎長伝』に聴き惚れ、伯山の行く先々の講釈場を追いかけ回した末、ほだされた弟子の神田ろ山によって伝授された。 「虎造節」の『清水次郎長伝』は、『秋葉の火祭り』から『荒神山の血煙り』までの全24篇。虎造は小音ながら力まない陰影豊かな、それでいてぬくもりのある芸風がラジオで特に受け、勝太郎の「天保水滸伝」と虎造の「清水次郎長伝」がそれぞれ代名詞的存在として認識されたの1935年(昭和10年)以降である。 「馬鹿は死ななきゃ直らない」の名文句で知られる浪曲「清水次郎長伝・石松代参」のうち「石松三十石船」の部分、江戸っ子の清水二十八人衆を強い順に並べる「言い立て」は、二代目広沢虎造の十八番中の十八番、浪曲の代名詞と呼べるほどよく知られ、伯山の土台の元に虎造が加えた工夫である。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎、大野鶴吉、桶屋の鬼吉、三保の松五郎、問屋場の大熊、鳥羽熊、豚松、伊達の五郎、石屋の重吉、相撲常、滑栗初五郎……」と挙げていくなかで、小政はまず冒頭に大政と対になって登場する。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を忘れていたことを思い出す、という筋である。 1924年(大正15年)3月22日に売り出し中の虎造の浪曲がラジオ初放送され、演目は次郎長伝のうち「次郎長と黒駒勝蔵」。その後も毎年のように次郎長伝が放送された。「次郎長もの」を全国的にブーム化したのが広沢虎造の浪曲で、昭和10年から戦争をまたいで昭和三十年代に至るまで、江戸っ子虎造の歯切れのよい節回しと独特の語りの組み合わせで、次郎長ものは一世を風靡する。戦後間もない1951年12月25日に開局したラジオ東京(のちのTBSラジオ)で翌26日から早速、虎造の「浪曲次郎長伝」が放送された。NHKによる年1~2回程度の放送から、民放による週1回の放送に渇望した大衆により、圧倒的に時間が増え、同番組は聴取率調査で他を大きく引き離す一位の34%を記録する など(俗にラジオ東京(現・TBSラジオ)の「虎造アワー」として様々に提供・演題を変えながら帯番組として1961年まで継続)、「正直者は馬鹿を見る」社会で、戦前戦後の本音の言えぬ庶民を代弁した事で圧倒的な人気を得て、「昭和」の代表的イメージの一つにまで掲げられるほどの人気となった。 郷土史家・堀文次が「荒神山の喧嘩」を中心に史実を探求、伊勢新聞等に発表し始めるのが1935年(昭和10年)であり、これは、長谷川伸、村上元三といった清水次郎長周辺の物語に興味を持った作家に影響を与えており、以降、小説等では、新たに明らかになった史実が盛り込まれるようになった。この村上元三作の「次郎長三国志」もフシ付けされ「虎造アワー」で放送された。映画化もされ虎造が出演している。 近年、この清水次郎長伝の浪曲をオマージュして取り上げた三遊亭白鳥作の荒唐無稽な新作落語「任侠流山動物園」が演じられ、再び脚光を浴びている。浪曲化は、本項「次郎長伝」も共に、二代目勝太郎の流れを汲む玉川太福が取り組んでいる。
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