帆の進化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 09:50 UTC 版)
江戸時代の打瀬船の帆は、弁才船に倣い、帆柱(マスト)は1本、船首に弥帆柱を1本立て、本帆は横帆の構造で帆の上部に帆桁(ヤード)を付けるが、下部には帆桁(ブ―ム)は付けない。上部の帆桁に付ける「手縄」や帆の左右の縁に付ける「両方綱」の操作で本帆を片帆(帆柱を中心に回転させ、進行方向に対し斜めにする。)にすることで横風帆走や逆風帆走を可能にした。 明治20年ごろ、西洋帆船に倣い帆柱を2本に増やし、本帆を縦帆2枚にする帆装が東海の三河湾で生まれ、やがて昭和前期にかけて西日本一帯に広まった。同時に船首と船尾に突き出した数メートルの棒(遣り出し)に三角形の補助帆2枚を貼るなど、合計で4枚以上の帆を張る形式も広まった。 強風下で帆打瀬を行うには、袋網が海底から浮き上がらないよう引き網の速さを抑えるために帆の展開を調節する必要がある。そこで、横方向に複数の竹の支え(バテン)が入ることで伸縮が容易であった伸子帆(木綿製ジャンク帆、スイシ帆)が、明治10年代後半に九州に現れると、これが船の横流しにも適していたため、明治30年代ごろから帆打瀬漁で使われるようになり、昭和の初期には本帆の2枚とも5本前後の竹の支えが入った伸子帆にすることが、東海を含めた西日本一帯に広まった。 昭和初期から打瀬船の動力化がはじまると、逆風帆走をする機会が少なくなり、本帆が縦帆である必要性が薄れていった。他方、依然として強風下での漁では帆を伸縮する必要があるため、現存する鹿児島県出水や熊本県芦北の打瀬船の本帆は、横帆ではあるが横方向に5本前後の竹の支えが入る構造が受け継がれている。 例えば、熊本県芦北町計石の佐敷港の打瀬網漁のための打瀬船の帆装は、帆柱4本で、本帆は横方向に5本前後の竹の支えが入っている構造で横帆4枚、船首と船尾に突き出した棒(遣り出し)に三角形と長方形の補助帆4枚、2番目と3番目の本帆の間に補助帆として四角形の中帆を1枚、合計で9枚の帆を張れる構造になっている。 帆の材質は、江戸時代の前期は、本帆と矢帆ともに筵が一般的であった。同後期に工楽松右衛門が通称「松右衛門帆」と呼ばれる帆布を開発し、全国に普及した後は、この軽くて丈夫な木綿の織物が帆に仕立てられ使用されることが一般化し、帆走性能が大きく向上した。
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