川島実
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川島 実(かわしま みのる、1974年8月1日 - )は、元プロボクサー、医師、仏僧。気仙沼市立本吉病院元院長。ドイツ文学者の川島隆は実弟。
経歴・人物
京都府長岡京市生まれ、奈良県奈良市育ち。東大寺学園高校を経て京都大学医学部医学科へ進学。大学入学後、体を鍛える目的で偶然始めたボクシングで頭角を現し、6年時(1998年)にプロ合格。京都拳闘会所属。
「現役医学部生ボクサー」として注目を集め、西日本新人王(ウェルター級)・MVPに輝いた[1]。中日本新人王・西部日本新人王を下し、西軍代表として全日本新人王決定戦に臨むが、東軍代表(相原一隆)に判定負けを喫する。プロ通算戦歴は15戦9勝 (5KO) 5敗1分。後に東洋太平洋スーパーウェルター級、ミドル級、スーパーミドル級で3階級制覇を果たす野中悠樹にも勝利しており、後の東洋太平洋ウェルター級王者丸元大成とは2勝1敗。
1999年[2]京大医学部卒業。プロボクサーの現役時代に医師国家試験に合格し、医師免許を取得。
29歳でボクサーを引退した後、地域医療に携わる。東日本大震災の発生後はボランティア医療のため、常勤医不在の宮城県気仙沼市立本吉病院へ、当時の勤務地であった山形県から片道4時間かけて毎週末通い詰めた。不在だった院長就任を依頼され、2011年10月就任[3]。医療体制に道筋をつけて2014年3月退任、フリーランスの医師となる[4]。
両親ともに京都大学出身。家族は薬剤師の妻と1男3女[1]。
2018年12月、2019年4月投票の奈良県知事選挙への出馬を表明した[6]が、現職の荒井正吾に約15万票近い差を付けられ、候補者3人の中では最少得票(10万8701票)で落選した[7]。
脚注
- ^ a b “気仙沼市立本吉病院、乗り越えた存続危機 大震災から2年、入院患者受け入れ再開へ”. 東洋経済オンライン. (2013年3月9日) 2014年2月6日閲覧。
- ^ 44歳現役医師、県知事選挙に出馬の訳 - 川島実・奈良県知事選挙立候補予定者に聞く◆Vol.1 | m3.com
- ^ “町民全体の家庭医を目指す 現場ルポ(1) 川島 実氏 気仙沼市立本吉病院長”. 日経メディカル. (2012年12月6日) 2014年2月6日閲覧。
- ^ “元プロボクサーの医師が行ったこととは?地域病院が立ち直るまで。”. coFFee doctorsコーヒードクターズ. (2014年) 2014年10月19日閲覧。
- ^ “京大出身ボクサー川島実、東大寺の僧侶になっていた!「人生は修行ですね。全てが」”. スポーツ報知. (2017年12月22日) 2017年12月23日閲覧。
- ^ “元プロボクサーの医師、川島実氏が奈良県知事選出馬へ”. 産経新聞. (2018年12月18日) 2018年12月18日閲覧。
- ^ 平成31年4月7日執行奈良県知事選挙 開票結果(確定分) (PDF) - 奈良県庁
参考文献
- TBS「ZONE」第42回 2000年9月14日 放送
- 日刊スポーツ「ボクサー病院長、気仙沼で密着ファイト」2011年10月11日 掲載
- 毎日新聞「ひと」欄 「被災地の病院長になった元プロボクサー 川島実さん」2012年3月22日朝刊 掲載
- TBS「報道特集」2012年3月31日 放送
- MBS(TBS系列)「情熱大陸」2013年3月10日 放送
- TBS「報道特集」2014年12月13日 放送
外部リンク
川島實
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川島 實
かわしま みのる
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生年月日 | 1936年2月20日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 2012年7月28日(76歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | 名城大学理工学部建築学科 |
所属政党 | (日本社会党→) (社会市民連合→) (社会民主連合→) (日本社会党→) (新進党→) 自由連合 |
称号 | 旭日中綬章 |
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選挙区 | 旧愛知4区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1990年2月18日 - 1996年9月27日 |
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選挙区 | 名古屋市瑞穂区選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1971年4月30日 - 1986年 |
川島 實(かわしま みのる、1936年2月20日 - 2012年7月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県議会議員(4期)などを歴任した。
来歴
福井県敦賀市出身。定時制高校の建築科に学ぶ。1957年に日本社会党に入党[1]。1961年3月、名城大学理工学部建築学科卒業[2]。
1967年4月、愛知県議会議員選挙に日本社会党公認で名古屋市瑞穂区選挙区から立候補するも次点で落選[3]。
1971年の県議選で初当選。1975年、再選。1977年に社会党を離党し、社会市民連合結成に参加。その後、社会民主連合県代表を務める。1983年、4回目の当選を果たす[4]。
1986年7月6日執行の第38回衆議院議員総選挙に向けて社会党に復党。岡崎市明大寺町坂下(現・竜美北2丁目)[5]に居を構え、元衆議院議員の太田一夫を選対事務長とし[6]、旧愛知4区から立候補するも落選。
日本建設組合連合参与や名古屋建築技能大学校校長などを務めた[7]。
1990年の第39回衆議院議員総選挙は資金不足のため公示までほとんど運動ができず、決起大会を開いても集まるのは組合員が数十人という状況であったが、土井ブームの余勢を駆って得票数1位で初当選を果たした[8]。
1993年の第40回衆議院議員総選挙は、前回の総選挙で大規模な選挙違反を行った杉浦正健の陣営が失速[9]。川島は得票数4位で再選を果たした。
1994年6月29日に行われた首班指名選挙では社会党党首の村山富市ではなく、海部俊樹に票を投じた。翌日、川島は新聞のインタビューに対し「社会党のはしご外しを狙う自民党を利するだけ。短命政権でしょう」と答え、離党届を提出した[10]。しかし党はこれを受理せず、除名処分とした。造反者は川島を含め衆議院で24名、参議院で4名、計28名に及んだが除名処分は川島のみであり、他の27名については厳重注意と規律委員会への報告のみだった(後に離党しようとした堀込征雄も除名された)。
1996年の第41回衆議院議員総選挙は新進党公認で愛知12区(岡崎市、西尾市、額田郡)から立候補するも落選。2000年の第42回衆議院議員総選挙は自由連合に移り、愛知4区(名古屋市瑞穂区、熱田区、港区、南区)から立候補するも落選。2001年、第19回参議院議員通常選挙に鞍替えし、自由連合公認で比例区から立候補するも落選。
2006年、旭日中綬章受章。2012年7月28日、気腫性腎盂腎炎により岡崎市内の病院で死去。76歳没[2][11]。
脚注
- ^ 『中日新聞』1986年6月25日付朝刊、西三河版、13面、「衆院選 私が候補者 (4)」。
- ^ a b 『現代物故者事典 2012~2014』日外アソシエーツ、2015年3月25日、179-180頁。
- ^ 『愛知県議会史 第十一巻』愛知県議会、1986年3月15日、354頁。
- ^ 『愛知県議会史 第十三巻』 愛知県議会、2008年3月15日、258頁。
- ^ “市政だより おかざき No.616” (PDF). 岡崎市役所. p. 12 (1988年5月15日). 2020年3月5日閲覧。
- ^ 『東海愛知新聞』1986年6月22日、1面、「衆院選も公示 四区は八人が立候補 同日選本格化」。
- ^ 『東海愛知新聞』1990年2月4日、1面、「総選挙スタート 四区は六人が立候補 『必勝』期し力強く第一声」。
- ^ 『朝日新聞』1990年2月24日付朝刊、23面、「『追い風』社党に危機感、どっぷり金食い選挙 杉浦氏派」。
- ^ 『中日新聞』1990年2月26日付朝刊、30面、「汚れた集票 緊急レポート 義理と人情のタテ社会 懲りない面々、また買収劇」。
- ^ 『中日新聞』1994年6月30日付夕刊、15面、「『納得できぬ自社連立』 信念の離党 東海の2議員 愛知4区・社会党川島実氏 三重2区・自民党野呂昭彦氏」。
- ^ “川島実氏が死去 元衆院議員”. 日本経済新聞. (2012年7月30日) 2012年7月30日閲覧。
川島実(かわしま みのる)
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「あなただけ見えない」の記事における「川島実(かわしま みのる)」の解説
川島恵と舞子の養父。青田三郎から幼い2人を預かり育てた。後に青田三郎によって夫婦ともども青酸カリで毒殺された。
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