山田雄三による先鞭とは? わかりやすく解説

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山田雄三による先鞭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 17:01 UTC 版)

ゲーム理論」の記事における「山田雄三による先鞭」の解説

一橋大学山田雄三教授1935年から1937年ウィーン大学留学しておりモルゲンシュテルンメンガーワルラスらと交流があったため、山田1942年刊行され著書計画経済理論』において既にモルゲンシュテルンゲーム理論的な問題意識紹介している。1944年『ゲームの理論と経済行動』出版されると、山田のもとにはモルゲンシュテルンから本が送られてきた。山田1947年1月毎日新聞社編『エコノミスト特集最近理論経済学展望』に「経済計画論の一課題経済的ストラテジー分析」と題した小論文寄稿しており、さらに1950年には、当時創刊されたばかりの『季刊理論経済学』の第1巻第2号に「ミニマックス原則要点」という論文の中で『ゲームの理論と経済行動』体系紹介している。これらから、山田によって日本の経済学界ゲーム理論紹介されたとされている。なお、山田の他にも統計学者林知己夫1947年6月フォン・ノイマン1928年研究紹介する記事統計数理研究所講究録上に発表しているが、謄写刷で配布されただけであったため他の学者読まれることはほとんどなかった。 山田1950年の「ミニマックス原則要点」の後にも「価格における確定不確定」(1951年)や「遊戯理論における価格分析」(1952年)など、ゲーム理論に関する研究論文発表している。さらに教育者としては1947年には既に一橋大学学部1年生に対してゼミ『ゲームの理論と経済行動』原著)を輪読させていた。しかし、オーストリア学派連なるものとしてゲーム理論見ていた山田は後のゲーム理論研究の進展に不満を持ちゲーム理論研究辞めてしまっている。山田は「あんまり数学的すぎてね、途中で放棄しちゃった」と語ったという。 後に日本ゲーム理論研究の中心役割を担うこととなる鈴木光男は、東北大学経済学部在学中山田の「ミニマックス原則要点」を読んだことを契機に、安井琢磨指導の下、ゲーム理論について卒業論文書くこととなった。独: Gesellschaftsspieleという単語1950年頃の独和辞典には掲載されていなかったため、鈴木によって「社会的ゲーム」と訳された。 当初多く日本人経済学者関心持っていたゲーム理論であったが、1950年代の日本にとって経済成長大きな関心対象であり、ゲーム理論を学ぶ者は次第にほとんどいなくなってしまった。その頃日本刊行されていた数少ないゲーム理論書籍として宮澤光一の『ゲームの理論』(1958年)や鈴木光男の『ゲームの理論』(1959年)がある。

※この「山田雄三による先鞭」の解説は、「ゲーム理論」の解説の一部です。
「山田雄三による先鞭」を含む「ゲーム理論」の記事については、「ゲーム理論」の概要を参照ください。

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