山田雄三による先鞭
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一橋大学の山田雄三教授は1935年から1937年にウィーン大学に留学しておりモルゲンシュテルン、メンガー、ワルラスらと交流があったため、山田は1942年に刊行された著書『計画の経済理論』において既にモルゲンシュテルンのゲーム理論的な問題意識を紹介している。1944年に『ゲームの理論と経済行動』が出版されると、山田のもとにはモルゲンシュテルンから本が送られてきた。山田は1947年1月に毎日新聞社編『エコノミスト特集:最近理論経済学の展望』に「経済計画論の一課題:経済的ストラテジーの分析」と題した小論文を寄稿しており、さらに1950年には、当時創刊されたばかりの『季刊理論経済学』の第1巻第2号に「ミニマックス原則の要点」という論文の中で『ゲームの理論と経済行動』の体系を紹介している。これらから、山田によって日本の経済学界にゲーム理論が紹介されたとされている。なお、山田の他にも統計学者の林知己夫が1947年6月にフォン・ノイマンの1928年の研究を紹介する記事を統計数理研究所講究録上に発表しているが、謄写刷で配布されただけであったため他の学者に読まれることはほとんどなかった。 山田は1950年の「ミニマックス原則の要点」の後にも「価格における確定・不確定」(1951年)や「遊戯の理論における価格分析」(1952年)など、ゲーム理論に関する研究論文を発表している。さらに教育者としては1947年には既に一橋大学の学部1年生に対してゼミで『ゲームの理論と経済行動』(原著)を輪読させていた。しかし、オーストリア学派に連なるものとしてゲーム理論を見ていた山田は後のゲーム理論研究の進展に不満を持ち、ゲーム理論の研究を辞めてしまっている。山田は「あんまり数学的すぎてね、途中で放棄しちゃった」と語ったという。 後に日本のゲーム理論研究の中心的役割を担うこととなる鈴木光男は、東北大学経済学部在学中に山田の「ミニマックス原則の要点」を読んだことを契機に、安井琢磨の指導の下、ゲーム理論について卒業論文を書くこととなった。独: Gesellschaftsspieleという単語は1950年頃の独和辞典には掲載されていなかったため、鈴木によって「社会的ゲーム」と訳された。 当初は多くの日本人経済学者が関心を持っていたゲーム理論であったが、1950年代の日本にとって経済成長が大きな関心の対象であり、ゲーム理論を学ぶ者は次第にほとんどいなくなってしまった。その頃日本で刊行されていた数少ないゲーム理論の書籍として宮澤光一の『ゲームの理論』(1958年)や鈴木光男の『ゲームの理論』(1959年)がある。
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