山本コマツから二代目女将の山本直枝へ
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「小松 (料亭)」の記事における「山本コマツから二代目女将の山本直枝へ」の解説
1923年(大正12年)に営業を再開した米が浜の小松は、400坪の敷地内に建てられた総建坪175坪、一階7室、二階3室の10室と蔵を備えた二階建て木造の建物であった。営業再開の翌年、山本コマツは当時満15歳であった大姪の呉東直枝を養女とした。一生独身を通した山本コマツは、直枝を養女とする前に2度、姪を養女として小松の後継者として育成しようとしたが、いずれも海軍軍人と婚姻したため上手くいかなかった。山本コマツにとってまさに三度目の正直であった直枝は期待に応え、平成に至るまで長きに渡って料亭小松を支えることになった。 1925年(大正14年)には小松の創業40年を記念して、建物の一部増築が行なわれた。現在も使用されている小松の玄関部分はこの時の増築で建てられた。小松では1923年(大正12年)と1925年(大正14年)に建設された部分を旧館と呼んでいたが、2003年(平成15年)に半分解体されマンションが建設された。その際に旧館の構造が調査されたが、旧館は和小屋とキングポストトラスが併用されていることが明らかとなった。 1927年(昭和2年)山本直枝は逗子の材木店の次男であった桐ヶ谷耕二を婿とした。この時点で小松の経営は満18歳になっていた山本直枝が引き継いだ。 1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮会議で軍縮を定めたロンドン海軍軍縮条約が成立すると、これに不満を抱く海軍若手将校が、小松に飾られていた岡田啓介揮毫の額を引きずりおろし、池に放り込んで快哉を叫ぶという出来事があった。 1933年(昭和8年)から翌1934年(昭和9年)にかけて、旧館の西側にあった庭園をつぶして新館の建設が行なわれた。新館は一階部分に洋間の応接室と7部屋の和室が設けられた。応接室はかつて山本五十六らが応接に使用したと言われ、現在でも応接室として用いられており、室内には旧日本海軍の資料等が展示されている。また7室の和室は部屋ごとに桐、紫檀、檜、楓、カリンなど、材質の異なる銘木を用いて室内の調度品等を誂え、室内の壁や装飾も華やかに作られ、小松を利用する海軍軍人を飽きさせない工夫がなされていた。中でも横須賀鎮守府長官ら海軍高官が多く利用した紅葉の間は、現在でも「長官部屋」と呼ばれている。 新館の二階部分は二間続きの大広間であり、廊下部分に敷かれた畳を含めると160畳敷の広さである。また二階部分も床の間に黒檀の太い床柱が用いられるなど、一階部分と同じく銘木がふんだんに用いられている。小松の新館に用いられている銘木は、山本直枝の婿である耕二の実家である、逗子の材木店から取り寄せたものと考えられている。なお新館の構造はキングポストトラスであるが、旧館のものよりもしっかりとした構造となっている。 山本直枝の代となっても、創始者である山本コマツは小松の宴席に顔を出し続けていたが、1935年(昭和10年)、山本コマツは米寿を盛大に祝った後、旧館の二階部分に新築された隠居部屋に隠居することとなった。なお山本コマツの隠居部屋は2003年(平成15年)に行なわれた旧館の解体部分に含まれたため、現存しない。
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