富岡無尽合資会社とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 富岡無尽合資会社の意味・解説 

富岡無尽

(富岡無尽合資会社 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/22 14:15 UTC 版)

富岡無尽(とみおかむじん)は徳島県にあった金融機関。徳島大正銀行の前身である。

富岡無尽合資会社

創業1918年大正7年)3月3日。旧那賀郡の14名の資産家により「富岡無尽合資会社」として那賀郡富岡町大字石塚字トノ町[1]37番地(発起人、田淵庫太郎の私邸[2])に資本金3万円で設立された[3]。その後、無尽業法による営業免許を受け、1919年(大正8年)3月29日に営業を開始する[4]

代表社員は富岡町の船越逸平無限責任社員には富岡町の樫野恒太郎、沢田伊間蔵、京野忠蔵、日高喜五郎、沢田唯蔵、大松谷直吉、田淵庫太郎、中島村の薩摩藤太郎、福井村の三間知賀、桑野町の湯浅信次郎、長生町の倉橋来、中野島村の米沢弘、見能林町の土居ハマエが就任した。

営業開始時の日本経済は大戦景気のピークにあったが、すぐに戦後恐慌の大不況が始まり、全国の金融機関では取り付け騒ぎが頻発する混乱の時代に陥った。ただし、第一次産業が経済の基軸であった当地においてはその影響が遅く、創業2年目で無尽契約高460万円に達する急成長を記録し、従業員・業務数の増加に伴って、本店を那賀郡富岡町大字富岡[5]370屋敷に移転した。当初本店のみだった店舗も1923年(大正12年)~1924年(大正13年)にかけて、三岐田出張所、日和佐代理店、中島代理店、坂野代理店、徳島代理店を順次設けている[4]。さらに1925年(大正14年)6月15日には本店を那賀郡富岡町大字富岡字東新町[6]87番地に新築移転している。この店舗は木造3階ガラス張りの、当時としては「超モダン」と言われる外観で、本店が徳島市へ移った後も富岡支店として1958年(昭和33年)まで営業していた[7]

1927年昭和2年)、片岡直温大蔵大臣の1927年3月14日の衆議院予算委員会での「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」失言から全国の金融機関で取り付け騒ぎが発生。金融恐慌が発生した。4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれた。 その後、経済状況は安定しないまま、1929年(昭和4年)、アメリカでの株価暴落を発端に世界恐慌が起こった。 国内の株価や米価格が暴落し、企業の生産縮小や倒産が起き、失業者が増大し金融市場は再び混乱した。

この際、昭和2年と同様、役員であった樫野恒太郎が私財を投じ「奇跡的に存続」(『徳島市史・第三巻』)することができた。

富岡無尽株式会社

1931年(昭和6年)の無尽業法の第2次改正により、無尽会社株式会社に限定されることになった。その結果、従来の合資会社では営業が認められなくなり、1936年(昭和11年)5月24日に資本金10万円の「富岡無尽株式会社」に組織変更することになる。

設立時の株式の総数は2000株で、出資内容は樫野恒太郎、船越逸平、三間知賀がそれぞれ280株(3人がそれぞれ筆頭株主)、日高喜五郎、久米高祐、土居薫、倉橋来、沢田義衛がそれぞれ265株で、計8名が出資者であった。

なお株式会社設立時の役員は互選の結果、取締役社長に船越逸平(初代・第4代社長)、専務取締役に久米高祐、取締役に樫野恒太郎、三間知賀、土居薫、監査役に日高喜五郎、倉橋来、沢田義衛が就任した。

設立後3ヵ月後の、1936年(昭和11年)8月23日、早くも代表取締役の変更を行い、取締役社長に樫野恒太郎(1936年 - 1946年、第2代社長)、専務取締役に三間知賀(のち第3代社長)が就任した。

これは、資本増強のため、当時社長であった船越逸平が自己保有株の半分の140株の引き取りを樫野恒太郎に依頼したもので、同時に樫野へ社長就任を要請した。これにより樫野恒太郎は420株の筆頭株主となるとともに2代目社長に就任した。

1927年(昭和2年)と1929年(昭和4年)の金融恐慌時同様、1936年(昭和11年)9月の危機にも、樫野恒太郎は、樫野商店の株式15株を三和銀行に差し入れることで2万3,750円の資金を調達し、救済に充てた。

1937年(昭和12年)、日中戦争のため政府による金融機関の整理統合が始まり、翌1938年(昭和13年)の無尽業法の改正により、最低資本金が10万円に引き上げられ、払い込み額3万5千円以上が義務つけられた。そのため、全国に246社あった無尽会社のうち、116社が取り潰された。

徳島県の無尽会社は、当時全国でも下位クラスであり、その存続は極めて厳しいものであった。1936年(昭和11年)当時、徳島県内にあった無尽株式会社3社のうち、第一無尽株式会社は1940年(昭和15年)に解散し、商業無尽株式会社は1941年(昭和16年)に解散した。富岡無尽株式会社のみが残り、徳島相互銀行を経て、徳島銀行になって存続した。

戦時中の1943年(昭和18年)に大阪の資本家によって買収される寸前の窮地に陥ったが、当時、樫野恒太郎が統制会長を務めており、石炭車両などの業界や政府との折衝が重ねられ、最終的に、再び樫野による資金の投入の結果、買収は回避され、今日の徳島大正銀行が存続することとなった。

脚注

  1. ^ 現・阿南市富岡町トノ町
  2. ^ 創業100周年史編纂部会 2019, p. 29.
  3. ^ 80年史編纂委員会 1998, p. 10.
  4. ^ a b 80年史編纂委員会 1998, p. 11.
  5. ^ 現・阿南市富岡町
  6. ^ 現・阿南市富岡町東新町
  7. ^ 80年史編纂委員会 1998, p. 12.

出典

  • 「徳島市史・第3巻」徳島市史編さん室編(1983年(昭和58年)発行)
  • 80年史編纂委員会 編『徳島銀行80年史』株式会社徳島銀行、徳島市富田浜一丁目16番地、1998年12月25日。 NCID BA39793628 
  • 創業100周年史編纂部会 編『徳島銀行百年史』株式会社徳島銀行、徳島市富田浜一丁目41番地、2019年1月。 NCID BB29066486 

富岡無尽合資会社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 08:14 UTC 版)

富岡無尽」の記事における「富岡無尽合資会社」の解説

創業1918年大正7年3月3日。旧那賀郡14名の資産家により「富岡無尽合資会社」として設立された。無尽業法による営業免許を受け、1919年大正8年7月から営業開始した代表社員富岡町船越逸平無限責任社員には富岡町樫野恒太郎沢田伊間、京野忠蔵日高五郎沢田大松直吉田淵太郎中島村薩摩藤太郎福井村三間知賀、桑野町湯浅次郎長生町倉橋来、中野島村米沢弘、見能林町土居ハマエ就任した1927年昭和2年)、片岡直温大蔵大臣1927年3月14日衆議院予算委員会での「東京渡辺銀行がとうとう破綻致しました失言から全国金融機関取り付け騒ぎ発生金融恐慌発生した4月鈴木商店倒産し、その煽り受けた台湾銀行休業追い込まれた。その後経済状況安定しないまま、1929年昭和4年)、アメリカで株価暴落発端世界恐慌起こった国内株価米価格が暴落し企業生産縮小倒産起き失業者増大し金融市場は再び混乱したこの際昭和2年と同様、役員であった樫野恒太郎私財投じ奇跡的に存続」(『徳島市史・第三巻』)することができた。

※この「富岡無尽合資会社」の解説は、「富岡無尽」の解説の一部です。
「富岡無尽合資会社」を含む「富岡無尽」の記事については、「富岡無尽」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「富岡無尽合資会社」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「富岡無尽合資会社」の関連用語

富岡無尽合資会社のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



富岡無尽合資会社のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの富岡無尽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの富岡無尽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS