宇佐八幡宮神託事件
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宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇の重祚)に対して「道鏡を皇位につけるべし」との神託が報告されたことを契機とする事件。称徳天皇が和気清麻呂を使者として神意を確認させたところ、「天つ日嗣は必ず皇諸を立てよ」という神託を報告したため清麻呂と姉・広虫(法均)は処罰されたものの、結局道鏡は天皇となることはなかった。
道鏡が天皇位を得ようとした事件と理解されることが多いが、称徳天皇をはじめとして他の首謀者を想定する説も存在する。道鏡事件[1][2][3]とも呼ばれる。和気清麻呂が近代日本において、勤王の忠臣として顕彰されるきっかけとなった事件である。
背景

皇嗣の不在
称徳天皇は天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱により淳仁天皇が淡路に配流されたことにより、孝謙上皇が重祚した天皇である。女帝は独身で子がなかったため後継者問題が浮上した。称徳天皇は10月に「朕一人が帝位を貪って皇太子を立てないのではなく、天の授けるところを待っているのであって、皇位について陰謀をめぐらすことはしてはならない。」という詔を発している[4][5][6][7]。翌天平神護元年(765年)8月、淳仁天皇の甥で称徳天皇のはとこにあたる和気王による呪詛が発覚し、和気王は配流の途中で絞殺された[8][9][10]。神護景雲3年(769年)5月に県犬養姉女を首謀者とする呪詛事件により、異母姉妹・不破内親王を厨真人厨女と改名の上、平城京から追放した[11][12][13]。
道鏡の栄達
道鏡は、地方豪族・弓削氏出身の僧侶だったが、孝謙上皇の病の治療を行ったことからその信頼を得て出世した[14]。道鏡の重用は、孝謙上皇と淳仁天皇が対立する原因にもなったとされる[15]。天平宝字8年(764年)に称徳天皇が重祚したことで道鏡は大臣禅師の位につき、天平神護元年(765年)閏10月には太政大臣禅師となった[16]。前述した和気王による呪詛は、「己が恨む男女二人在り。此を殺し賜へ」と祈願文書にあるように道鏡と称徳天皇を対象とするものだったとみられる[8]。道鏡は天平神護2年(766年)10月に「法王」となり、天皇と同等の月料を受ける立場となった[17]。
また道鏡の一族も昇進し、特に道鏡の弟の弓削浄人は神護景雲2年(768年)には大納言と大宰帥を兼ねるに至った[18]。
宇佐八幡
八幡神は奈良時代に朝廷との関わりを持つようになり、力を強めていく社である[19][20]。正史における初見は天平9年(737年)4月に、伊勢神宮、大神社、筑紫の住吉(宗像大社)・八幡二社および香椎宮に使者を遣わして奉幣し、新羅無礼の状を告げた、というものである[20][21][22]。天平20年(748年)には大神宅女と大神杜女が外従五位下に叙され、孝謙天皇が即位した天平勝宝元年(749年)には杜女と主神・大神田麻呂に大神朝臣の姓が与えられている[21]。同年八幡大神が託宣して、八幡神が上京して毘盧遮那仏と対面することとなり、12月には憑座となった杜女が東大寺の大仏を拝した[23][24]。これにより杜女は従四位下、田麻呂は外従五位下に叙されたばかりか、翌年2月には八幡神・比売神合わせて1400戸の封戸が贈られている[23][24]。
ところが、天平勝宝6年(754年)11月24日に、薬師寺の僧・行信が大神多(田)麻呂と共謀して厭魅を行うという事件が発覚し、行信は下野薬師寺へ左遷された[25]。27日には田麻呂が杜女とともに位階・姓を剥奪され、杜女は日向、田麻呂は多褹嶋(種子島)へ配流となってしまった[25][26]。これに対応して翌天平勝宝7年(755年)3月に八幡神の「吾は偽りの神命を託宣することを望まない。封1400戸を朝廷に返し奉る。」という神託があり、先述の封戸を返上する[27]。
状況が変わるのは藤原仲麻呂の乱鎮圧直後に、乱鎮圧の報賽とみられる封25戸の施入があってからである[28]。天平神護2年(766年)4月には比売神に封600戸が献納され[28][29]、同年12月には田麻呂が外従五位下に復位するとともに大神朝臣に復姓、豊後員外掾に任じられた[23][30]。翌神護景雲元年(767年)には比売神の神宮寺(既に八幡神には弥勒寺という神宮寺が存在した)の造営が命じられている[28][29]。
事件の経緯

2つの神託
事件については『続日本紀』神護景雲3年(769年)9月己丑(25日)条が基本史料となる。同条が伝える経緯は以下のようなものである[31][32][33][34][3]。
- まず、大宰主神・習宜阿曾麻呂が道鏡に媚びて「道鏡を皇位に即ければ天下太平となる」という宇佐八幡の神託を報告した。道鏡はこれを聞いて喜び自負した。称徳天皇は夢で尼・法均を使いに寄越すよう八幡神のお告げを得て、法均の代わりとして弟の和気清麻呂が使者として派遣された。道鏡は清麻呂に、きっと自身の即位についてのお告げがあるだろうから、うまくやれば官爵を与えると持ちかけた。清麻呂が宇佐八幡宮で神託を受けると、「我が国は開闢以来君臣定まれり。臣を以て君と為す、未だこれあらず。天つ日嗣には必ず皇諸を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」というものであった。清麻呂が都に戻りその通りに報告すると、これを聞いた道鏡は大いに怒り、清麻呂の本官を解いて因幡員外介に左遷し、赴任前に除名して大隅国へ配流、法均は還俗の上備後国に配流となった。
同条は以上のような経緯のもと9月25日に発せられた宣命を記録するものであり、宣命は次のような内容である[31][32][33][35][3]。
- 輔治能清麻呂と姉・法均が「甚大に悪く奸る忌語」を作り、法均が天皇に奏した。自分で作ったことを大神の御命と言ったものだったので、法のままに退けた。清麻呂らと共謀した人がいることは知っているが慈しみを以て許すので心を改めて奉侍せよ。また清麻呂は別部穢麻呂と改名させ、法均は広虫売に戻す。また明基も広虫売と心を一つにするので退ける。
この事件について伝える文献としてはほかに『日本後紀』の和気清麻呂薨伝(延暦18年2月21日条)、『類聚国史』(巻180、天長元年9月27日条)がある[31][36][37][38]。前者には清麻呂が宇佐出発前に道鏡の師・路真人豊永が道鏡が皇位につくことがあれば自身は現代の伯夷になると述べたこと、宇佐八幡宮で清麻呂の前に大きさ3丈余りで満月のような姿の八幡神が姿を現し託宣したこと、法均が別部狭虫と改名させられたこと、清麻呂が流される際に道鏡がその殺害を図ったが果たさなかったこと、流された清麻呂の忠烈を哀れんだ藤原百川が備後国の封20戸を配所に届させたことなどの記述が見えるが、大筋では『続日本紀』と変わらない[36]。『類聚国史』に記録されているのは和気清麻呂の子・真綱と仲世の言上であり、高尾寺(神護寺)を定額寺とすることを求めているが[38]、道鏡の悪人性が強調されている[36]。
なお『続日本紀』9月25日条は和気清麻呂が処罰された記事であるため、清麻呂は先立って宇佐へ往復しており、第1の神託が都に報告されたのはさらにその前ということになる。第1の神託の奏上があった時期は、同年5月ごろと考えられている[39]。5月28日に清麻呂が藤野和気真人の姓を改めて輔治能(ふじの)真人という姓を与えられていることから、この賜姓を宇佐への派遣に際してのものと解することによる[39][29]。さらに清麻呂の因幡員外介任命は8月19日であることが確認できるため、事件の発生はそれ以前となる[32]。『八幡宇佐御託宣集』によれば清麻呂が託宣を受けたのは7月11日であるという[29]。
10月1日詔
『続日本紀』によれば、清麻呂・広虫姉弟への処罰から6日が経過した10月1日に、称徳天皇は次のような内容を含む宣命を発している[40][41]。
- 臣下に聖武天皇への忠誠を求め、皇太子阿倍内親王(称徳天皇)への忠誠を求める元正天皇の遺言。
- 以下の4条からなる聖武天皇の言葉。①臣下に光明皇后と阿倍内親王への忠誠を命じる。 ②聖武天皇は孝謙天皇へ譲位の際、慈悲の心で天下を治め、仏法を重んじ、天神地祇への祭祀を絶やさぬよう言った。 ③皇位は天からの授かりもので、聖武天皇が定めた皇太子でも汝(孝謙天皇)がふさわしくないと判断すれば廃して代わりの人物を立ててもよい[42]。④東人に節刀を授けたのは汝(孝謙天皇)の護衛のためである[43]。
- 『千字文』や『金光明最勝王経』などを引用し、皇位を求める動きを非難し、忠誠を求めた上で帯を賜与する。
この宣命については本居宣長、金子武雄、横田健一[44]などにより日付を疑う説が提唱されているが、中西康裕は9月25日宣命との表現の近接性と内容の対応から時期に誤りはないと解している[40]。
称徳天皇崩御と道鏡の左遷
称徳天皇はこの事件の翌年、神護景雲4年(770年)8月4日に崩御し[45]、その後継者となった皇太子・白壁王(後の光仁天皇)によって道鏡は8月21日に下野薬師寺へ左遷させられた[46]。白壁王の令旨では道鏡法師は窃かに「舐粳」の心を抱いて久しく、称光天皇崩御直後に「姦謀」が発覚したとされている[34][3]。「粳」は「糠」であるとみられ、糠をなめ尽くすと米に及ぶことから徐々に害が及ぶことを指すと解される[3]。「舐粳」の心を道鏡が皇位を狙ったことを指すという見解もあるが、中西康裕は僧侶の身でありながら政治権力を握ったことを指すとしている[47]。
同日阿曾麻呂は多褹嶋守に任命されるが、これは左遷人事と解されている[46]。翌22日に道鏡の弟の浄人とその息子3人も土佐国へ流罪となった[46]。
宝亀3年(772年)4月6日に道鏡の死去が都に報告され、『続日本紀』の同日条においては習宜阿曾麻呂が八幡神の教示と偽り道鏡をたぶらかして皇位を望む志を抱かせたとされている[33]。
時系列

- 天平宝字8年(764年)
- 10月9日 - 称徳天皇重祚。
- 天平神護元年(765年)
- 8月1日 - 和気王による呪詛事件発覚。
- 閏10月2日 - 道鏡、太政大臣禅師となる。
- 天平神護2年(766年)
- 10月20日 - 道鏡、法王となる。
- 11月5日 - 和気清麻呂、従五位下に叙される[48]。
- 神護景雲2年(768年)
- 神護景雲3年(769年)
- 神護景雲4年/宝亀元年(770年)
- 宝亀2年(771年)
- 宝亀3年(772年)
- 4月6日 - 道鏡死去が報告される[46]。
- 6月 - 阿曾麻呂、大隅守任命。
解釈

この事件は『続日本紀』宝亀3年条の説明を信じれば、習宜阿曾麻呂が道鏡に媚びを売るために引き起こしたもので、道鏡は神託を虚偽とは知らずに皇位を望んだこととなる[33]。しかし、阿曾麻呂に対する道鏡失脚時の処罰は、多褹嶋守への左遷という程度のもので、宝亀3年には大隅守に転任しており、このような重大事件の主犯格とみるには罰が軽すぎると指摘されている[49]。また阿曾麻呂の就いていた大宰主神とは正七位下相当の地位として高いものではなく、彼単独で皇位継承に関する神託を上申したところでまともに取り扱われるものかにも疑問が示されている[50]。
上に述べたような理由により阿曾麻呂の背後にいた人物を想定されることにより、「道鏡を皇位につけるべし」という神託の首謀者については、以下のような諸説が提唱されている。また近年では長谷部将司が事件が後世再構築されることを指摘しているほか[51]、事件の構造そのものを見直す説が複数提唱されている(後述)。
- 道鏡説(後述)
- 称徳天皇説(後述)
- 称徳天皇・道鏡共謀説
- 平野邦雄による。
- 藤原氏説
- 宇佐八幡宮神官説
道鏡説
当時道鏡の弟・弓削浄人が大宰帥となっており、大宰主神であった阿曾麻呂の上司であったことから道鏡が首謀者という説[49]。『続日本紀』神護景雲3年9月25日条の地の文において、清麻呂を官爵で籠絡しようとしたことや、清麻呂の報告に道鏡が激怒したことなどが根拠とされるが、地の文は道鏡失脚後の編者による文章であるから、そのまま信用しがたいという問題点がある[49]。
道鏡が首謀者であったとすれば、皇位を狙うという重大な行為に対して、後の処罰が下野薬師寺への左遷というのは余りに軽すぎるという批判がある[49]。
称徳天皇説
瀧川政次郎は、神託が道鏡によって捏造されたものであれば称徳天皇の怒りに触れたはずなのに、実際には逆に清麻呂の方が失脚させられていることから、神託は称徳天皇の道鏡へ皇位を譲ろうという意思を反映したものだと解釈した[1]。称徳天皇を首謀者と考える説の根拠としては、9月25日宣命で、天皇自らの判断で法均の「妄語」を見破っていることも挙げられる[49]。称徳天皇が主体的に動かない限り、他の者の共謀だけでは到底道鏡の即位はおぼつかないことも指摘できる[34]。北山茂夫は、道鏡に皇位を譲ろうとした称徳天皇の意図に触発されて大神杜女・田麻呂が第1の神託を作出し、彼らはその神託を覆さなかったが、清麻呂が藤原百川らの支持のもと第2の神託によって道鏡との対決に臨んだという解釈を提示している[55]。
しかし称徳天皇自身が道鏡の即位を望んでいたならば、なぜ最初の神託の時点で道鏡に譲位せずに和気清麻呂に再度確認に向かわせたのか、和気清麻呂を罰した後に別の者を再び使者に立てなかったのか、という問題が生じる[49]。この説を支持する立場からは、道鏡を即位させなかった理由として、清麻呂がもたらした神託によって称徳天皇の道鏡即位計画は断念せざるを得なかったと説明される[56]。
河内祥輔は道鏡が仮に皇位を継承したとしても、「道鏡の次の天皇」についての見通しが立たないという問題を指摘する(道鏡は僧侶であり、子孫が存在しない)[57]。河内は、道鏡擁立は称徳天皇が企図したもので、他戸親王への中継ぎとして道鏡を立てようとしたと解している[58]。
細井浩志は、そもそも称徳天皇は、淳仁天皇時代から天武天皇系皇統の嫡流であるとする立場を堅持し続けて皇位継承者の選任権を手放さなかったこと、そして事件後の神護景雲3年10月の詔勅によって称徳天皇自身が改めて皇位継承者を自らが決める意思を強調していること[59]から、事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしている。また、道鏡の左遷はこの時代の典型的な政変であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、彼が元々地方豪族出身でなおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解している。『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で白壁王を後継としたとしている。
勝浦令子は、第1の神託は称徳天皇の道鏡を皇位につける意向に従い宇佐八幡の女禰宜、さらに大宰府が動いたことによる内々のもので、道鏡失脚時に明るみに出たとする[34]。この報に接した道鏡も皇位を期待し、称徳天皇は腹心の清麻呂を派遣することでお墨付きを得ようとしたが、予想外の託宣がもたらされた[29]。天皇は清麻呂姉弟を放逐したが、喪失感にさいなまれ思い悩んだ末に道鏡を皇位につけることを断念したことを間接的に示したものが10月1日詔であると解している[60]。
事件の構造を見直す説
事件不存在説
中西康裕は、称徳天皇が和気清麻呂・広虫を処罰しながらも道鏡即位へ向けて動いた形跡がないという疑問を足がかりとして、神護景雲3年9月25日宣命は神託の内容について触れていないことに着目し、経緯を説明する『続日本紀』同日条の地の文は同書編纂時に架空の事件を創作したものであるという説を提唱した[49]。すなわち、同日の宣命が伝えるように宇佐八幡の神託を報告した清麻呂が処罰されたのは事実であるが、その神託の内容については、第1の神託は由義宮建設に関すること、清麻呂がもたらした第2の神託は某王(白壁王または他戸王か)を皇太子につけよというものだったと推測している[40]。この見解に対しては、由義宮建設に関する神託は確認の使者を派遣するほどの重要事項ではない、某王即位に関する点は推測でしかないという批判がある[61]。細井浩志は『続日本紀』が道鏡政権を批判する際には、後日に“不正の暴露”などの形で対になる事実を提示しており、神託事件についてのみ創作を加えたとは考えにくいとして批判した。
清麻呂姉弟の処罰原因を見直す説
和気清麻呂・広虫が処罰されているにもかかわらず、道鏡が即位できなかった理由を、清麻呂がもたらした「天つ日嗣は必ず皇諸を立てよ」という神託に称徳天皇が従ったにすぎないと解釈し、清麻呂姉弟の処罰原因を別に求める説。
瀧浪貞子は、称徳天皇も道鏡も神託の「天つ日嗣は必ず皇諸を立てよ」という部分は受け入れてこれに従ったのだが、「無道の人は宜しく早く掃除すべし」という部分は、道鏡の追放までも求める内容であり称徳天皇からすれば虚偽として退けるしかなかったと解する。瀧浪は第1の神託については阿曾麻呂と浄人によって計画されたものであり、称徳天皇はむしろ腹心の清麻呂姉弟を使者とすることで道鏡の即位を阻む託宣を期待したのだが、清麻呂が期待した以外の内容までも含む神託を報告したために処罰せざるを得なくなったとする。
若井敏明も、第1の神託は阿曾麻呂が捏造した中央貴族から見れば非常識なもので、だからこそ確認の使者を派遣するに至り、常識的な第2の神託を清麻呂が持ち帰ったことで一旦は幕引きとなったとしている[32]。若井説では「無道の人は宜しく早く掃除すべし」という部分も当初は問題とされておらず、清麻呂の8月19日の因幡員外介への任命も通常の人事の範囲内であり、9月25日の処罰に至る原因はこの1ヶ月の間に広虫が神託の当該部分を道鏡排除に利用しようとしたことであると解している[32]。若井説では称徳天皇は道鏡に皇位を譲ろうとしていたのではなく、法王である道鏡に権力を譲って新たに法王制によって国を統治することを目指していたとする[62]。
後世への影響
神託事件にゆかりのある大阪府八尾市(道鏡の出身地)・岡山県和気町(和気清麻呂の出身地)・大分県宇佐市(宇佐神宮の所在地)は相互に姉妹都市となっている。
脚注
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- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P132ー133)初版は1986年。
- ^ 鷺森 2020, pp. 190–191.
- ^ 坂本太郎以来、これを道鏡への譲位断念と解釈されるが、細井は皇族の軽挙を戒めているが、天皇が意中の人物(道鏡を含めて)を求める旨を強調したに過ぎないとする。
- ^ 勝浦 2014, pp. 286–291.
- ^ 鷺森 2020, pp. 187–188.
- ^ 若井 2006, pp. 64–70.
参考文献
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要登録)
- 中西康裕「道鏡事件」『続日本紀と奈良朝の政変』吉川弘文館、2002年7月20日、226-251頁。ISBN 4-642-02382-8。
- 若井敏明 著「宇佐八幡宮神託事件と称徳天皇」、速水侑 編『奈良・平安仏教の展開』吉川弘文館、2006年8月20日、51-72頁。 ISBN 4-642-02451-4。
- 瀧浪貞子『奈良朝の政変と道鏡』吉川弘文館〈敗者の日本史〉、2013年3月1日。 ISBN 978-4-642-06448-4。
- 勝浦令子『孝謙・称徳天皇―出家しても政を行ふに豈障らず―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年10月10日。 ISBN 978-4-623-07181-4。
- 鷺森浩幸『藤原仲麻呂と道鏡 ゆらぐ奈良朝の政治体制』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2020年8月1日。 ISBN 978-4-642-05904-6。
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この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。
|
- 細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4
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