宇佐八幡宮神託事件と光仁天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:29 UTC 版)
「奈良時代」の記事における「宇佐八幡宮神託事件と光仁天皇」の解説
道鏡は、やがて765年(天平神護元年)には太政大臣禅師、翌766年(天平神護2年)には法王となって、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。称徳天皇(孝謙上皇が復位)と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったとして、道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、藤原百川や和気清麻呂に阻まれ、770年(宝亀元年)の称徳天皇の没後に失脚した(宇佐八幡宮神託事件)。光仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手や藤原式家の藤原良継・百川らが躍進した。光仁天皇はこれまでの天武天皇の血統ではなく、天智天皇の子孫であった。光仁天皇は、官人の人員を削減するなど財政緊縮につとめ、国司や郡司の監督をきびしくして、地方政治の粛正をはかった。しかし、780年(宝亀11年)では陸奥国で伊治呰麻呂の反乱がおきるなど、東北地方では蝦夷の抵抗が強まった。
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