嫡子としての昇進
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文武朝の大宝元年(701年)正六位上・内舎人に叙任されて官途に就く。大宝2年(702年)中判事に任官するが、病を得て翌大宝3年(703年)中判事を辞任する。1年ほど養生したの後、大宝4年(704年)大学助に任ぜられるが、当時藤原京遷都に伴って人心慌ただしく、学生は四散するなど大学寮が衰微していた。そこで、武智麻呂は大学頭・百済王郎虞とともに碩学を招いて経書と史書を講説させたところ、遠近の学者が集まり再び大学寮は充実したという。また慶雲2年(705年)2月の釈奠のために、年功を積んだ儒者であった刀利康嗣に後世の模範となる釈奠文を作成させたという。なお、この釈奠文は日本に現存する最古の物である。 かつて病気のために1年ほど官界を離れていたこともあって、同年12月に1歳年下の弟・房前と同時に従五位下に叙爵する。翌慶雲3年(706年)大学頭に昇任するが、学生に『詩経』『書経』『礼記』『易経』を学ばせて訓導するなど、引き続き大学寮の発展に務めた。和銅元年(708年)図書頭兼侍従に遷ると、壬申の乱以来散逸していた図書寮の書籍について、民間に協力を求めて採集し充実を図ったという。 和銅4年(711年)に再び房前と同時に従五位上に叙せられ、和銅5年(712年)近江守に任ぜられ地方官に遷る。近江守在職中の霊亀2年(716年)寺院が所有する田園の利益を占有するために、多くの土地を分け取る一方で造営を行わず、虚偽の僧侶の名簿を提出している状態であるため、これを正し綱紀を引き締めるべき旨を奏上した。この奏上は許されると共に、この奏上を受けて、妄りに建立された寺院の整理・統合を進めることや、壇越による寺院所有田地の私物化禁止などの寺院政策が行われている。 近江守在職中の和銅6年(713年)に国司としての実績が評価されて従四位下に叙せられる。その後は武智麻呂が位階の上では先に昇進し、和銅8年(715年)に武智麻呂が従四位上、房前は従四位下に、養老3年(719年)には武智麻呂は正四位下、房前は従四位上にそれぞれ同時に昇進している。しかし、この間の霊亀3年(717年)房前が参議に任ぜられ、武智麻呂に先んじて公卿となる。このため、藤原不比等の嫡男を兄の武智麻呂ではなく房前とする学説が出されたこともある。しかし、武智麻呂が主に京官を通して昇進していたのに対して、房前は文武天皇大葬の山陵司や東海道/東山道巡察使といった臨時職にしか就いておらず、少なくとも房前の参議任官までは武智麻呂が嫡子として扱われていた様子が窺われる。さらに、武智麻呂は養老2年(718年)式部卿、養老3年(719年)東宮傅と相当位を越える官職に任ぜられる。これは房前の参議任官に対応する人事であることは明らかである。特に、東宮傅への任官によって藤原氏の切り札である皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の後見役を担うことになるが、これは皇子の外祖父でもある不比等の地位と役割を、嫡男たる武智麻呂が継承することを約束されたことを示すと考えられる。
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