嫡子としての昇進とは? わかりやすく解説

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嫡子としての昇進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 01:35 UTC 版)

藤原武智麻呂」の記事における「嫡子としての昇進」の解説

文武朝の大宝元年701年正六位上内舎人叙任され官途に就く大宝2年702年中判事に任官するが、病を得て翌大宝3年703年中判事を辞任する1年ほど養生したの後、大宝4年704年大学助に任ぜられるが、当時藤原京遷都伴って人心慌ただしく学生四散するなど大学寮衰微していた。そこで、武智麻呂大学頭百済王郎虞とともに碩学招いて経書史書講説させたところ、遠近学者集まり再び大学寮充実したという。また慶雲2年705年2月釈奠のために、年功積んだ儒者であった刀利康嗣後世模範となる釈奠文を作成させたという。なお、この釈奠文は日本現存する最古の物である。 かつて病気のために1年ほど官界離れていたこともあって、同年12月1歳年下の弟・房前同時に従五位下叙爵する。翌慶雲3年706年大学頭昇任するが、学生に『詩経『書経』礼記』『易経』を学ばせて訓導するなど、引き続き大学寮発展務めた和銅元年708年図書頭侍従遷ると、壬申の乱以来散逸していた図書寮書籍について民間協力求めて採集し充実図ったという。 和銅4年711年)に再び房前同時に従五位上叙せられ、和銅5年712年近江守に任ぜられ地方官遷る近江在職中霊亀2年716年寺院所有する田園利益占有するために、多く土地分け取る一方で造営行わず虚偽僧侶名簿提出している状態であるため、これを正し綱紀引き締めるべき旨を奏上した。この奏上許されると共に、この奏上受けて妄りに建立され寺院整理統合進めることや、壇越による寺院所有田地私物化禁止などの寺院政策が行われている。 近江在職中和銅6年713年)に国司としての実績評価され従四位下に叙せられる。その後武智麻呂位階の上では先に昇進し和銅8年715年)に武智麻呂従四位上房前従四位下に、養老3年719年)には武智麻呂正四位下房前従四位上それぞれ同時に昇進している。しかし、この間霊亀3年717年房前参議に任ぜられ、武智麻呂先んじて公卿となる。このため藤原不比等嫡男を兄の武智麻呂ではなく房前とする学説出されたこともある。しかし、武智麻呂が主に京官通して昇進していたのに対して房前文武天皇大葬山陵司や東海道/東山道巡察使といった臨時職にしか就いておらず、少なくとも房前参議任官まで武智麻呂嫡子として扱われていた様子窺われる。さらに、武智麻呂養老2年718年式部卿養老3年719年東宮傅と相当位を越え官職に任ぜられる。これは房前参議任官対応する人事であることは明らかである。特に、東宮傅への任官によって藤原氏切り札である皇太子首皇子(のち聖武天皇)の後見役を担うことになるが、これは皇子外祖父でもある不比等地位役割を、嫡男たる武智麻呂継承することを約束されたことを示すと考えられる

※この「嫡子としての昇進」の解説は、「藤原武智麻呂」の解説の一部です。
「嫡子としての昇進」を含む「藤原武智麻呂」の記事については、「藤原武智麻呂」の概要を参照ください。

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