娼妓との区別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 19:30 UTC 版)
芸妓はあくまでも芸を売って座の取持ちを行うのがその勤めである。しかし、江戸時代以来、芸妓もその他の遊女と同様、前借金を抱えた年季奉公であり、過去の花街は人身売買や売春の温床となっていた。大正時代には、新聞社が仲介した養女の貰い手の大半は新橋・赤坂・下谷などの芸妓屋であったという。誰でも構わず身を売ることは「不見転(みずてん)」として戒められたが、第二次世界大戦後までこうした不見転はほぼどこの土地でも見られ、置屋も積極的にこれを勧めることが多かったし、芸妓に「泊まり」として売春を強要することも多く見られた。1956年、売春防止法が制定されると芸妓を取り巻くこれらの状況に変化が起こった。「不見転」や「泊まり」を売りにした置屋は打撃を受けることとなり、そういった置屋が多くあることを売りにしていた花街は衰退した。その一方で娼妓だった者らが「芸妓」を名乗ってかつての「不見転」や「泊まり」に当たる行為を行う「枕芸者」を売りにした温泉地が地方に見られるようになった。しかし、そのような事象も昭和50年代以降は徐々に見られなくなった。 しかし、あくまで芸妓は遊女とは区別され、一流の芸妓は「芸は売っても体は売らぬ」心意気を持ち、決まった旦那に尽くし、その見返りに金銭が報われるというのがその建前になっていた。むろん、こうした実態を嫌い、芸妓は客の自由にならぬものという気概を貫きとおし、一生涯旦那を持たない名妓も多くいた。なんの自由も無いと考えられがちである芸妓だが、恋愛の自由は昔からかなり認められていたようだ。 自らの芸によって生活する芸妓は、明治以降一種のあこがれの存在としてとらえられることも多く、雑誌で人気投票が行われたり、絵葉書が好評を博したこともあった。 明治・大正時代には、名古屋を中心とする尾濃伊(尾張、美濃、伊勢)と、新潟を中心とする北越地方が芸妓の産地と言われ、東京では美妓・名妓と呼ばれる多くがそれらの出身者だった。 「不見転」不見転とは、歌妓(芸妓)が客を選ぶことなく、たやすく売春すること。「みずゆき」「みず」「転芸者」などともいわれた。歌妓と大尽をかたどった、一文人形(幕末に浅草を中心に、鐚びた銭せん一文で庶民に売られた小さな土製の人形)の絵あり。『うなゐの友』(初編)に類似の絵あり。晴風は安値で体を売る不見転を、安値で売られた一文人形と対比させている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「不見転」より抜粋
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