妙心寺派管長から遷化まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:00 UTC 版)
「山本玄峰」の記事における「妙心寺派管長から遷化まで」の解説
1947年(昭和22年)には臨済宗妙心寺派21代管長に推挙され晋山(昭和22年から昭和24年)。そして1948年(昭和23年には)花園大学の改革にも着手した。1950年(昭和25年)には戻った龍沢寺で4月に授戒会を開催。そして翌年の1951年(昭和26年)龍沢寺を法嗣の中川宋淵に譲り、住職を辞任。その後しばらくして、居士の近藤政吉が建立した沼津市の去来庵に弟子の平井玄恭と一緒に数年滞在した。1953年(昭和28年)3月、14回目の四国遍路を行った。これが歩いて巡る四国遍路の最後となった。同年の4月には龍沢寺にて米寿祝賀会。来会者400名。1957年(昭和32年)には高知の雪蹊寺に霊宝殿を建立する。同年7月には田中清玄宅に行き、朝浴室にて倒れ北品川病院に1月ほど入院したが、10月には龍沢寺の入制大接心に無門関提唱をする。1960年(昭和35年)には「無門関提唱」上梓。その後、東京谷中の全生庵にて静養する。12月21日に狭心症発作。翌23日には全生庵にて遺言を口授する。1961年(昭和36年)1月16日、玄峰の希望により全生庵から三島竹倉温泉の旅館伯日荘に移る。6月3日午前1時25分遷化。世寿96。遺骸を即時龍沢寺に移した。6月5日に荼毘に付した。遺言により葬儀は行われなかった。そして25日に般若斎を営む。9月28日に誕生地、和歌山県湯の峰温泉場に『玄峰塔』建立。(p.308 玄峰老師略年譜)
※この「妙心寺派管長から遷化まで」の解説は、「山本玄峰」の解説の一部です。
「妙心寺派管長から遷化まで」を含む「山本玄峰」の記事については、「山本玄峰」の概要を参照ください。
- 妙心寺派管長から遷化までのページへのリンク