大関への挑戦
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しかし、ここから栃東の苦闘が始まる。東関脇と番付を上げた1997年11月場所では右足捻挫で7勝8敗と負け越し、翌1998年(平成10年)3月場所は右肩剥離骨折のため6日目から途中休場、翌5月場所も公傷休場。この剥離骨折が重症で、関脇復帰まで約1年半を要することになった。1999年秋場所は初日から2日連続金星を獲得し殊勲賞、九州場所も2場所連続で貴乃花に勝ち技能賞。2000年(平成12年)7月場所は5場所連続で関脇在位となり、2横綱3大関に勝ち12勝3敗の優勝次点という好成績をおさめて5回目の技能賞を受賞した。待ちに待った大関挑戦場所となった同年9月場所は、右肩関節脱臼のため6日目から途中休場、翌11月場所も公傷休場、度重なる怪我に泣いた。 公傷明けの2001年(平成13年)1月場所は、10勝を上げて翌場所には早くも三役に復帰した。同年3月場所は小結で1横綱3大関に勝ち9勝6敗として3回目の殊勲賞、同年7月場所は関脇で1横綱2大関に勝ち10勝5敗と6回目の技能賞を獲得した。同年9月場所は12勝3敗の優勝次点と完全復帰したが、立合いからいきなり変化する注文相撲が4番もあったため、三賞候補からは外れてしまった。 しかし、2回目の大関挑戦場所となった同年11月場所では、それまで何回も批判を浴びてきた立合い変化を一度も見せることなく初日から7連勝。後半戦に入り優勝争いから一歩後退、14日目の横綱・武蔵丸戦で足を強打するアクシデントに見舞われる。それでも翌日千秋楽の大関・武双山戦は勝利を収めて、12勝3敗の成績で連続優勝次点、7回目の技能賞(三賞受賞12回目)を獲得する。それと共に、全て関脇の地位で3場所合計34勝を挙げ、ようやく念願の大関昇進を決めたのであった。何度も怪我の影響があって中々大関取りを果たせず、入幕から大関昇進までは5年の歳月を要した。大関昇進伝達式では、口上に「努力精進」の文言を使用している。
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