大衆集会の開催へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 06:48 UTC 版)
「ピータールーの虐殺」の記事における「大衆集会の開催へ」の解説
1819年初頭までに劣悪な経済状況による窮境は頂点に達し、南ランカシャーの綿織職人の間で政治的急進主義への支持が拡大した。これに答えるように北部イングランドで選挙権が欠如している状況と結びついて、「大集会」が議会改革要求団体であるマンチェスター愛国連合(the Manchester Patriotic Union)によって組織された。マンチェスター愛国連合はマンチェスター・オブザーヴァー(Manchester Observer)紙出身の急進主義者の手で設立された団体で、オブザーヴァー紙の創刊者でジャーナリストのジョゼフ・ジョンソン(Joseph Johnson)が連合の書記に、編集者のジェームズ・ロウ(James Wroe)が会計係に就いていた。ジョンソンはよく知られた急進主義者の演説家であるヘンリー・ハント(Henry Hunt)に手紙を書いて1819年8月2日にマンチェスターで計画されていた大集会の司会を務めるよう依頼した。手紙の中でジョンソンは次のように書いている。 この地区の状況は実に恐ろしく、最大限努力しなければ暴動を防ぐことはできないと私は考えています。ああ、ロンドンのあなたが覚悟を決めてくれれば。 ジョンソンにもハントにも知られていなかったが、この手紙は実は政府のスパイに押さえられてハントのもとに届く前に中身を写し取られていた。手紙の内容は暴動が計画されていることを意味するものと解され、政府は第15騎兵連隊(the 15th Hussars)をマンチェスターに急派することで対応にあたった。 8月2日に計画されていた大衆集会は8月9日まで延期された。延期を告知するなかで、マンチェスター・オブザーヴァーは集会の目的は「議会下院における急進的改革を達成するための最も迅速かつ有効な方策を考えること」であり「『マンチェスターの議会に代表されない住民たち』が議会で彼らを代表する議員を選出することが妥当であるか考えること」であると報じた。地元の治安判事たちはウィリアム・フルトン(William Hulton)の指揮のもとで、内務大臣臨時代理のヘンリー・ホブハウス(Henry Hobhouse)から「国王の詔書無しに議員を選ぶこと」は立派な犯罪であると助言を受けており、ホブハウスからはまた集会が違法であることを宣言するよう促されていた。 政府は8月9日に延期された集会を禁止することで急進主義者たちが完全に意気阻喪することを企図していたが、ハントとその支持者たちは集会の実施を決めた。新たな集会は8月16日に計画されていたが、それは内務大臣初代シドマス子爵ヘンリー・アディントンが治安判事たちに、議員を選出する意志が違法なのではなく、そうした意志を実行に移すことが違法なのであると教示する手紙を書き送った後のことだった。 新聞は、以前から労働者による集会をみすぼらしく薄汚れた姿や無秩序な行動のためにたびたび嘲笑していた。そのため集会の運営者側はセント・ピーターズ・フィールドの集会に出席する者はきちんと身だしなみを整え、秩序だって集会まで行進してくるよう取り決めた。ミドルトンからの一団を集会に率いてきた地元の急進主義者であるサミュエル・バムフォード(Samuel Bamford)は次のように記している。「この集会ができうる限り道徳的に強い印象を与え、イングランドでおよそ目撃されたことのないような光景を見せることは好都合だったと考えられた」。「清潔に、素面で、秩序だって、平和的に」という指示は各地の参加者をとりまとめたあらゆる委員会に通達されており、「攻守を問わず全ての武器の禁止」はデモの最中を通じて徹底されていた。当局の関心をよそに、各地の参加者たちはマンチェスター周辺の野原で練習と予行演習をさせられていた。あるスパイは「タングル・ヒルで700人が連隊の教練のように練習していた」と報告している。練習を禁じる国王の布告は8月3日にマンチェスターで公示された。
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