大師東丹保遺跡のウマ・ウシ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 03:01 UTC 版)
「大師東丹保遺跡」の記事における「大師東丹保遺跡のウマ・ウシ」の解説
大師東丹保遺跡・百々遺跡・二本柳遺跡では、いずれも平安時代から鎌倉時代にかけての多数の牛馬骨が出土している。 百々遺跡は銅製錘や腰帯具の出土から役所など政治的性格の強い集落であったと推定され、官衙などの公的施設が存在していたとも考えられている。また、鍛冶遺構は確認されていないものの、鉄滓の出土から鉄器生産を行う集落であったとされる。百々遺跡では牧に直接関係する遺構は確認されていないが、多数のウシ・ウマの出土状況から、集落に隣接した八田牧(八田荘)の前身集落であると考えられている。 百々遺跡からはウマの埋葬事例も4例7体が見られる。これは自然死個体の埋葬もしくは供犠によるものであり、ウマに対しては埋葬を行う特別な扱いが行われていたことが確認される。 百々遺跡ではウマの埋葬事例が見られる一方で、軍馬としての基準を満たさない4歳前後の若齢の個体や、散乱的に出土するウマの四肢骨が見られ、基準に満たないウマの解体・加工が行われていたと推定されている。 これに対して大師東丹保遺跡のウマの年齢構成10歳前後で、百々遺跡のように解体・加工を示す遺構やウマ遺体は見られず、水田農耕を行う上で軍馬としての基準にみたないウマも農耕馬として転用していたと考えられている。 また、骨コラーゲンを構成する炭素・窒素の安定同位体比によるウマの食性復元によれば、大師東丹保遺跡のウマは餌として自生するC3植物とアワ・ヒエなど栽培植物のC4植物の双方を摂取していた結果が報告されている。さらに、歯エナメル質に含まれるストロンチウムの同位体比によるウマの産地復元によれば、大師東丹保遺跡を含む山梨県内の遺跡出土馬は外部から持ち込まれた馬が含まれていたことも報告されている。 大師東丹保遺跡・百々遺跡ではウシも多く出土している。ウシは古代には日本列島において広く出土し、東日本では千葉県の谷津貝塚など馬を大幅に上回るウシが出土した遺跡も存在する。中世には東国ではウシからウマ主体に移行し、武士団の勃興に伴う変化であると考えられている。百々遺跡・大師東丹保遺跡・二本柳遺跡におけるウシ・ウマの組成は、百々遺跡では同数程度であり、二本柳遺跡(平安後期から鎌倉)ではウマが主体となっている。鎌倉時代の大師東丹保遺跡ではウマ100点(5頭):ウシ39点(8頭)が出土しており、二本柳遺跡と同様にウマが主体の構成となっている。 大師東丹保遺跡出土のウマは、百々遺跡と比較して死馬の解体・加工の痕跡が見られず、その背景には文化的な差異があったとが指摘される。さらに、中世に移行するに伴いウシ・ウマの組成がウマが主体に変化することから、甲斐国においても平安時代後期に武士団としての甲斐源氏が台頭し、それに伴い乗用に用いられるウマが好まれたと考えられている。
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