大師河原酒合戦
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慶安元年(1648年)8月に、大師河原(神奈川県川崎市川崎区)で行なわれたこの酒合戦は、酒井雅楽頭の殿医の茨城春朔がその仮名草子『水鳥記』(寛文2年(1662年)刊)に軍記物語を擬して記していたので知られる。また。『近世奇跡考』五に、地黄坊樽次酒戦として記述がある。 東軍は、地黄坊樽次(茨城春朔)を主将とし、鎌倉の甚鉄坊常赤、赤阪の毛倉坊鉢呑、武州蕨の宿の住人半斉坊数呑、川崎の住人小倉又兵衛忠酔、多摩郡菅村の住人佐保田の某酔久、小石川の住人佐藤権兵衛胸赤、平塚の住人来見坊樽持、江戸ふな町の鈴木半兵衛呑勝、浅草の名古屋半之丞盛安、同木下杢兵衛尉飯嫌、飛坂の三浦新之丞樽明、麻布の佐々木五郎すけ呑、同弥三右衛門酒丸、八王子の松井金兵衛夜久、川崎南河原の住人斉藤伝左衛門忠呑、喜太郎醒安などを率い、太子河原村大蛇丸底深(池上太郎左衛門)の家に押し寄せた。 西軍は、大蛇丸底深を主将とし、太子河原村名主の池上四郎兵衛常広、竹野小太郎湛呑、同弥太郎数成、米倉八郎衛門吐次、藪下勘解由左衛門尉早呑、池上長吉底成、同百助底平、田中徳坊呑久、朝腹九郎左衛門底安、同佐太郎忠成、山下作内請安、池上三郎兵衛強成、またを九次郎常佐などである。 『水鳥記』によれば、この結果は、「昨日迄も今日迄も鬼神と云はれし底深も僅か三時の中にせり勝給ふぞ恐ろしき」という。一説に、西軍の勝利に終り、地黄坊樽次秘蔵の蜂龍杯を大蛇丸底深に獲られたという。 蜂龍杯の蜂龍は「さす、のむ」の寓意であり、蜂龍杯は『江戸名所図会』によれば、径は畳の目18目であり、容量は7合余であるという。
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