外政家、小村とは? わかりやすく解説

外政家、小村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)

小村壽太郎」の記事における「外政家、小村」の解説

小村外交」も参照 小村特徴としてはまず、アメリカ留学鍛えた抜群語学力あげられる外交官となってからも仕事合間大量洋書読みこなすなど、小村外交政策基盤として高度な語学力支えられ情報収集能力があったことは疑いない。 そして、小村在外公使領事本国送信した電報を、実に丁寧に様々な角度から自身読み、そのため、非常に時間かかったものの内容をよく覚えており、それを基にみずから判断し返電訓電も必ず小村意を受けたものであったという。小村はしばし病気患ったが、職務にあって小村はその姿勢貫いたのである小村がひじょうに秘密主義徹していたことも特筆値する機密を守るのは、外交官資質としてきわめて大切な要素ではあるが、人との距離を遠ざける原因ともなっていた。また、小村たいへんな社交嫌いでもあったため、駐米公使時代駐英大使時代不人気な外交官であり、同盟国友好国人脈広げることはできなかった。大使公使としての勤務向いていなかったわけではないが、小村はむしろ乱世で力を発揮するタイプであった。なお、小村はしばしマスコミ嫌いと思われがちであるが、必ずしもそうではなく利用できる踏んだときはおおいにメディア活用している。 さらに、小村特徴としては、議会政党対す低い評価がある。この点は陸奥宗光加藤高明とも異なっており、超然内閣かろうじて成立しえた明治時代後半であったからこそ小村充分に力を発揮できたという側面がある。小村は、一国外交権限外務大臣内閣にあると考えていた。そのため、外交方針伊藤博文山縣有朋などの元老影響力を及ぼすことにも強く反対した。藩閥政府にも反発していたため、まずは首相支持取りつけ時にリードしながら外政での主導権を握ることで元老関与限定的なものにとどめた。 そのスタイルは、確かに民主主義的エリート主義的なものといえたが、一方では、外交政争の具にしないという長所があった。小村外交政策には一貫性があり、遂行にあたって決してぶれなかったが、これは決し小村個人的性格だけに帰せられるものではない。また、小村民主主義嫌いも、交渉対象国政治体制いかんによってイデオロギーによって外国評価したり、政策決定したりという風潮には無縁で、純粋にパワー・ポリティクス視点から国際政治考えそのなかで国益最優先考えたため、柔軟現実的な外交政策が採られるという利点があった。イギリス・アメリカ・ロシア・清国朝鮮韓国)といった重要な国々での外交官歴任し海外経験豊富な割には特定の国への思い入れ外交政策影響しなかった点も小村特徴で、どの国とも適度な距離をとって公平で冷静な判断下している。

※この「外政家、小村」の解説は、「小村壽太郎」の解説の一部です。
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