坂本家の家系
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龍馬自身は紀姓で紀貫之の子孫と称したという。墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎず、3代目太郎左衛門までは公認の名字を持たない百姓身分と考えられる。2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。4代目守之、5代目正禎の頃に豪農としての頭角を現し、才谷村の字の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。 寛文6年(1666年)、3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にて質屋を開業し(屋号は才谷屋)、酒屋、呉服などを扱う豪商となる。享保15年(1730年)ごろ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。明和7年(1770年)、6代目直益は郷士の株を買い、長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り、身分表象として刀を2本差せる身分にたどりついた。次男・直清には商家才谷屋を継がせている。郷士坂本家3代目・直足は白札郷士(上士)・山本信固(覚右衛門)の次男として生まれ、坂本家へ養子として入った。直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はお龍(楢崎龍)、また、千葉さな子は婚約者だったと言われる。龍馬には子がいなかったため、甥(姉・千鶴の長男)の直が家督を継いだ。 郷士坂本家は5代目当主の直寛(姉・千鶴の次男で龍馬の甥)のときの明治30年(1897年)に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には郷士坂本家の人々はいない。直寛は、武市半平太の後に武市家を継承した武市安哉らとともに、キリスト教精神に基づく活動や自由民権運動を行っており、この考えによる理想のまちづくりを夢見て、新天地である北海道に移住した。北海道開拓は生前の龍馬の夢でもあった。 詳細は「自由民権運動」を参照 小説では、坂本家は明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔 とし、坂本姓の由来は明智家所領であった坂本(現・滋賀県大津市坂本)に由来するとの話もあるが、坂本の地名は全国に多数ある。このようなことからも、後世の創作だろうとする声も強い。 坂本家の家紋は「組み合わせ桝に桔梗」。 2010年1月15日、横須賀市の信楽寺にて、龍馬死後143年ぶりにお龍との合同慰霊祭が催された。
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