国防副長官・国防長官時代 (ビル・クリントン政権)
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「ウィリアム・J・ペリー」の記事における「国防副長官・国防長官時代 (ビル・クリントン政権)」の解説
1993年3月5日に第22代国防副長官に就任した。ナン・ルーガー法に従ってロシア連邦に対して旧ソビエト連邦の核兵器廃棄事業を支援した。 1994年1月のレス・アスピン国防長官の辞任時にビル・クリントン大統領より国防長官への就任を要請された。一度は辞退したが、アル・ゴア副大統領より説得されて翻意し、第19代アメリカ合衆国国防長官に就任した。 旧ソ連圏の崩壊に伴い、東ヨーロッパの安定が課題となった。NATOは東ヨーロッパへ拡大しようとしていたが、NATO拡大に対して警戒感をもっていた新生ロシアの懸念を払拭することが必要だった。その時ペリー国防長官は、NATO加盟の前段階としての「平和のためのパートナーシップ(PFP)」を推進した。その結果ロシアのPFPへの参加を引き出し、ソ連崩壊後の東ヨーロッパの安定化に成功した。 1994年に北朝鮮が実験用黒鉛減速炉からプルトニウムを抽出するぞと得意の瀬戸際外交を演じた際には、ペリー国防長官は徹底して外交的解決を目指したが、軍事的な後ろ盾の必要も感じ、密かに北朝鮮の核疑惑施設への空爆いわゆるサージカル・ストライクも検討させていた。このとき空爆の対象として検討された施設は、寧辺にある核燃料再処理施設・5メガワットの実験炉・使用済み燃料保管プールなどである。カーター元大統領を特使として派遣し、北朝鮮が核開発を中止する代わりにアメリカ・日本・韓国が中心になって2基の軽水炉を建設するという「米朝枠組み合意」が最終的な交渉結果となった。 1996年3月に台湾の民主化が進められ、1996年中華民国総統選挙が行われた。民主化を推進している李登輝が優勢との情報が伝えられると、中国人民解放軍は台湾沖に向けてミサイル演習を実施した。アメリカはインド洋から原子力空母ニミッツ、横須賀を母港とする空母インディペンデンスを急遽台湾周辺に派遣した。2隻の空母派遣表明が奏功し、空母が到着したときには大陸側のミサイル演習は終わっていた。この台湾海峡ミサイル危機へのアメリカの対応に当たって、ペリーは国家安全保障会議に対して代案無しで選択肢を1つしか提案しなかったと回想している。 1996年4月にクリントン大統領が来日して橋本龍太郎首相と会談し、冷戦終結後の日本とアメリカの安保体制の重要性を再確認する「日米安保共同宣言」に署名した。普天間基地の返還もこの時に決定した。そこに至る2年以上の歳月をペリーはジョセフ・ナイ国防次官補と共に歩んだ日米双方の関係者の困難解決の過程を感慨をもって「私の履歴書」で振り返っている。 1994年10月に1989年6月4日の天安門事件以後初めて国防長官として中華人民共和国を訪問した。その答礼として1996年にこれまた天安門事件以後初めてのアメリカ訪問となる中国の遅浩田国防部長をアメリカに迎え、アメリカ合衆国と中華人民共和国の軍事交流を進めた。
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