国外脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:07 UTC 版)
「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事における「国外脱出」の解説
公妃はヴァレンヌ事件の逃亡計画については何も聞かされていなかった。1791年6月20日の夜、王妃はランバル公妃に「おやすみ」と言葉をかけた際、「疲れて身体が参ってしまわないうちに、何日か田舎で休養してきなさい」と勧めた。公妃は王妃の振る舞いが何か変だと感じつつ、助言通りにパッシー地区の自邸に戻った。果たして国王一家はその夜のうちに宮殿から脱出、逃亡計画を明かして「ブリュッセルで再会しましょう」の言葉で締めくくられた王妃からの手紙がランバルの許に届けられた。ランバルはオマールにいる義父の許に急行し、国外脱出するので各方面への紹介状をしたためてほしいと懇請した。 公妃はブローニュ=シュル=メールから英国領ドーヴァーへ渡り同地で1泊、翌6月26日にオーストリア領ネーデルラントのオーステンデに移動した。さらにその先のブリュッセルでフェルセン及びプロヴァンス伯爵夫妻と再会した後、エクス=ラ=シャペルに落ち着いた。9月にはスパで湯治中のスウェーデン王グスタフ3世を訪ね、10月にはスウェーデン王の返礼の訪問を受けた。パリの大衆紙『パリ新報(Chronique de Paris)』は、ランバル公妃の渡英は王妃に託された外交使命を果たすためだと報じた。 ランバル公妃は、自分が王妃のためにより役に立てる場所はフランス国内なのか国外なのか答えを出せず、長く苦悩した。周囲も相反する助言をした。フランス人の友人たちは戻って王妃に仕えるべきだと励ましたが、実家の家族や親類縁者は心配してトリノに帰ることを勧めてきた。ランバルの国外滞在中に文通を続けていた王妃マリー・アントワネットも、当初はランバルに戻ってこないよう強く求めていた。ところが1791年9月、1791年憲法の新体制の開始とともに、王妃は内閣から王妃家政機関の再編を要請され、家政機関内にいる国内に不在の官職保有者を全て解雇するよう要求された。そこで王妃は、ランバル公妃に公的書簡を送り、帰国し再出仕するか辞職するか選ぶよう求めることになった。この公的書簡の中で、王妃はランバルに送った私的な手紙とは反対に、帰国し再出仕する義務について説諭していた。公妃は帰国の意思を伝え、「私は王妃と生死を共にせねばなりません」と語った。 パリに戻れば死が待っているだろうと確信していたランバル公妃は、英国バースで賃借したロイヤル・クレセント(英語版)の高級テラスハウスに滞在中、遺書をしたためた。遺書の署名の日付と場所は「1791年10月15日、エクス=ラ=シャペル」となっていることから、遺書は実際にはネーデルラント滞在中に書かれたという異説もある。公妃は10月20日にエクス=ラ=シャペルを発ち、パリの新聞報道によれば11月4日にパリに到着した。
※この「国外脱出」の解説は、「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の解説の一部です。
「国外脱出」を含む「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事については、「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の概要を参照ください。
- 国外脱出のページへのリンク