嘉靖年代の議論と経過
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「嘉靖年代の議論と経過」の解説
1487年、マラッカ王国へ赴いた冊封使が海難事故に遭い、正副使ともに死亡した。この事件以後、明の官僚たちは冊封使として渡海することを忌諱するようになった。1487年以降、最初に冊封の対象となったのは、1527年に約50年間王位にあった後に亡くなった尚真の跡を継いだ尚清であった。1527年秋、尚清は早速明に請封使を送った。この時、明側は調査をして回答するとの返答をしたが、肝心の使節が明からの帰途、海難事故に遭って死亡したために返事が琉球側に届かなかった。そこで1530年に琉球側は改めて明に請封を行ったが、明は福建の地方官に実態調査を命じるとともに、尚清に簒奪の疑いありとして、新国王である尚清の出自と地位が確かであることを示す、「国中臣民結状」つまり琉球の民の信任状を提出するように求めた。もともと明は冊封時に新王の正統性を問題にしたことは無く、実際問題として正統性を確かめるのは困難であり、万一簒奪の事実が判明したとしても明が王位継承自体を覆すことは不可能に近い。従ってこれは尚清の冊封を引き延ばしたい理由が明側にあったと考えられている。 明が尚清の冊封を引き延ばしたかった理由のひとつは、前述のようにマラッカへ赴いた冊封使が海難事故に遭い、正副使ともに死亡した事故以降、海を渡る冊封使の危険性について明の官僚たちが強く意識するようになったことが挙げられる。また当時、倭寇の活動が活発化しており、琉球への海路は一層の困難が予想された。このような中で、琉球国王の冊封を中国国内で使者に国王に封じる詔書を手渡す領封で済まそうとの議論が発生した。もう一つ、琉球への頒封が困難であった嘉靖年間初頭特有の事情があった。嘉靖帝は皇位を継ぐ男子がいなかった正徳帝のいとこであった。帝位を継いだ後、嘉靖帝は実父を皇帝扱いしたいと願い、それに反対する廷臣たちを大弾圧した大礼の議が起きていた。その結果として高級官僚に大幅な欠員が生じ、琉球に冊封使を送る余裕が無かったのである。 この時の冊封は、結局、「国中臣民結状」を持参した1532年の請封を受けて、1534年に琉球に冊封使が出向いた上で実施された。1532年には中国近海の情勢は落ち着いてきており、また大礼の儀後の高級官僚不足も解消に向かっていた。なお「国中臣民結状」は尚清の次の尚元の請封時には提出されなかったが、次々代の尚永以降、継続して提出されるようになる。 1557年、尚清の跡を継いだ尚元が請封を行った。嘉靖帝はこれまで通り琉球で冊封の儀式を行う頒封を行うことを決定した。しかし冊封使が福州で琉球渡航を待っていた1560年、琉球からの通例の進貢使が、福州で冊封を行う領封を要請したのである。これまで琉球側から領封の要請はなく、その後も明清交代期に琉球側が頒封に消極的になったことがある以外、このような事態は起きなかった。琉球側の言い分としては、琉球渡航は悪天候の危険が伴い、しかも倭寇が猖獗を極めているため、明の使者にとって危険が多い領封ではなく、領封を行ってはどうかというものであった。実際この頃、倭寇が活発化しており明はその対応に苦慮していた。 倭寇対策に頭を痛めた嘉靖帝は、臣下に対応策を下問している。その中で琉球を通して日本側に倭寇禁圧を求める案が浮上した。前述のように明はこれまでも琉球を日本との交渉窓口にしようとしたことがあり、実際、寧波の乱後の琉球の仲介は成功していた。そこで嘉靖帝は日本に倭寇禁圧を求める明の意向を琉球を通じて伝えるという密命を、冊封使に託そうともくろんだ。この話を察知した琉球側が、密命を受けることを忌避するためにあえて領封を望んだのではとの推察がある。この時も明側はこれまで通り頒封とすべきか、領封に変えるべきか論争が起きたが、結局従来通りの頒封と決し、1561年、冊封使が渡琉した上で尚元の冊封儀礼を行った。
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