商業航海時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 05:14 UTC 版)
「高千穂丸」も参照 大阪商船は1896年(明治29年)に大阪と基隆間の航路を台湾総督府命令航路として定期航海を下命され、遅れて同区間の航路を命令航路として下命された日本郵船との間で競争を繰り広げるが、大阪商船では、大型船の投入などで常に先手を打ってサービスの向上に努めた。大正時代までは「笠戸丸」(6,209トン)や「亜米利加丸」(6,030トン)、「蓬莱丸」(9,205トン)など他の船会社や外国からの購入船で占められていたが、昭和時代に入り、台湾航路向けとして初めての新造船となる「高千穂丸」(8,154トン)が竣工した。しかし時代の趨勢とともに台湾の重要度が増し、「高千穂丸」を拡大改良した貨客船が投入される事となった。これが「高砂丸」である。 「高砂丸」は1937年(昭和12年)4月28日に三菱重工業長崎造船所で竣工した。大阪商船の主任造船技師だった和辻春樹は「高千穂丸」に続いて客室部分の甲板の反りを廃止して極力水平に近づけ、居住性を高めた。その一方で、外観上は「高千穂丸」とは異なって流線型を多用するなど「美意識が潜んだデザイン」で纏め上げられた。機関部も改良が加えられ、機械室の主復水器の配置方法や主軸受けの位置を変更してスペースの縮小と重量軽減に取り組んだ。シーマージンは30%程度に設定され、「少し石炭を余分に焚くと忽ち20ノットに増速した」が、これは命令航路では到着時刻の厳守が規定されており、荒天時の航海での遅れを取り戻すための措置だった。大阪商船の台湾航路就航船の中で、文字通り「最大、最新、最高速」を誇ったが、スペック面では「高砂丸」の竣工に先立つ1ヵ月前に完成した近海郵船の「富士丸」(9,138トン)とほぼ同等であった。「高砂丸」の就航に先立ち、これまで台湾航路に就航していた「瑞穂丸」(8,506トン)は大連航路に転属となった。 竣工後は5月10日から12日に芝浦ふ頭で、5月18日に神戸港中突堤でそれぞれお披露目が行われ、神戸でのお披露目の2日後の5月20日に処女航海で基隆に向かった。「高砂丸」の運航スケジュールに関しては「高千穂丸」および「蓬莱丸」とともに月3往復の就航で、基隆行は神戸を正午に出港し、門司には翌日の未明に到着して正午に出港、2日後の正午に基隆に到着。逆の神戸行は午前11時に基隆を出港して2日後の午後1時に門司に到着し、午後5時に出港して翌日の午前10時に神戸に到着するという「高砂丸」専用のダイヤグラムが組まれ、「富士丸」を筆頭とする近海郵船の船舶とのサービス競争を繰り広げた。就航後間もなく日中戦争が勃発し、「高千穂丸」が一時日本陸軍に貸上げされたが、「高砂丸」は1941年(昭和16年)11月まで台湾航路に就航し続けた。
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