周辺地域に与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:53 UTC 版)
「神戸外国人居留地」の記事における「周辺地域に与えた影響」の解説
神戸外国人居留地は貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた。 開港前、周辺地域における交易の中心は兵庫津であり、兵庫津を中心に市街地が形成されていた。しかし兵庫開港によって居留地周辺の経済活動が活発となり、新たな市街地が形成されていった。そして1890年代初めには居留地周辺と兵庫津周辺の市街地は一続きの市街地を形成するようになった。なお前述のように、兵庫開港においては兵庫津ではなく神戸村の海岸に建設された新たな港が外国に開放されたが、この港は1892年(明治25年)に勅令により神戸港とされ、さらに同年神戸港の港域は拡大され兵庫津を含むようになった。 文化面ではまず食生活への影響が挙げられる。前述のように神戸外国人居留地周辺では1869年(明治元年/2年)に日本人経営の牛肉料理屋「関門月下亭」が開店し1871年(明治3年/4年)に日本人経営の牛肉店である大井肉店と森谷商店が開店するなど、開港後間もない頃から日本人が業として牛肉を取り扱い、食するようになった。同じ時期に牛乳やパンを食する習慣も広まった。建築の面では1873年(明治6年)に兵庫県が居留地近辺の市街地について洋風のデザインを採用するよう奨励する政策を打ち出し、居留地返還後に実際に建築物の洋風化が進むようになった。スポーツの面では前述のように、内外人公園で居留外国人がラグビー・テニスなどに興じている姿を日本人が目にしたことでそれらの競技が周辺に普及するきっかけが生まれたと評価されている。宗教の面ではキリスト教徒が増加した。福原遊郭は、居留地の造成にあたった柴田剛中が「開港によって軍艦や商船が渡来し、水夫その他の軽輩のものが出入りするので遊女屋がなくては不取締である」と外国人向けの遊郭の建設を上申したことにより、1868年(慶応4年/明治元年)に雑居地の外側に当たる宇治川の河口に設置され、1870年(明治2年/3年)に一帯が鉄道の停車場建設用地に選定されたことを受け湊川堤の東、西国街道の北(新福原)に移転した。福原遊郭は外国人の顧客を抱え、遊郭内には和洋折衷の建物も存在した。 神戸外国人居留地が存在したことで神戸市はモダンでハイカラ、エキゾチックな雰囲気をもち、ベンチャー精神に富んだ、外国人に対し受容的な都市として発展したと評価されている。さらに前述のように、雑居地において日本人が外国人を身近に接しながら暮らし、「生活レベルでの国際交流」が行われたことは、日本人と外国人が共生する「多民族・多文化共生都市」としての神戸市の原型を形成したと評価されている。
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