名誉書記官
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「クレメンツ・マーカム」の記事における「名誉書記官」の解説
1854年、マーカムは王立地理学会のフェローに選ばれていた。この学会は間もなくマーカムの地理的興味の中心となり、1863年にはその名誉書記官に指名され、その職を25年間務めた。 マーカムはネアズの北極遠征を促進させたことに加えて、他の北極探検家の仕事をフォローし、1880年にはスウェーデンの探検家アドルフ・エリク・ノルデンショルドが北東航路航行に成功した後でそのレセプションを開き、アドルフ・グリーリーとジョージ・W・デロングによるアメリカ遠征隊の進行をモニターした。インド担当省の仕事から解放されたことで、旅に使う時間も増えた。ヨーロッパ大陸を定期的に訪問し、1885年にはアメリカに行って、ホワイトハウスでグロバー・クリーブランド大統領と会った。マーカムはその書記官の仕事を通じて、旅行記や伝記の多作な著作家となり、また王立地理学会やその他の機関に多くの論文を提出した。「ブリタニカ百科事典」第9版では、「地理的発見の進行」と題する記事を書いた。大衆的な歴史書も書いた。王立地理学会の中では学会の標準書『旅人へのヒント』の改定を行い、学会誌『王立地理学会の議事録』をより活発な形態で再発行した。 王立地理学会の任務に並行して、1886年までハックルート協会の書記官も務め、その後は協会長になった。この協会での仕事の一部として、旅の稀覯本をスペイン語から英語に翻訳しており、特にペルーに関するものが多かった。当時の学者はその翻訳の質について疑問を表明しており、急いで準備され推敲が欠けていたことが指摘された。それでもこの作品は協会の出版物として22巻になった。1873年、マーカムは王立協会のフェローに選出された。その後ポルトガルのキリスト騎士団やブラジルのローズ勲章など海外の栄誉を贈られることになった。一時期は国会議員になることも検討したが、それ以上は進まなかった。 マーカムは海軍の、特に士官の訓練に関する興味を持ち続けた。商船士官訓練船HMSコンウェイやHMSウースターをしばしば訪れ、その統治団体のメンバーになった。1887年初期、このときイギリス海軍の訓練戦隊を指揮していた従弟のアルバート・マーカムからの招待を受けて、西インド諸島の基地で戦隊に合流した。マーカムは旗艦のHMSアクティブで3か月間を過ごし、その間の1887年3月1日にロバート・スコットと初めて会った。スコットはHMSローバーに乗るミッドシップマンであり、カッターの競争で勝利した。マーカムはこのことをしっかりと覚えていた。
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