名松線開通以前とは? わかりやすく解説

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名松線開通以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 05:29 UTC 版)

美杉町奥津」の記事における「名松線開通以前」の解説

奥津村延元3年1338年)に北畠顕能伊勢国国司任じられ以降北畠家所領であった室町時代の『満済准后日記』によると、正長元年7月19日ユリウス暦1428年8月29日)に小倉宮聖承伊勢国司の北畠満雅頼り奥津に居を構えたという。同日記では「多気ノ奥、興津ト申所」と記されている。また奥津現存する念仏寺境内に建つ大永2年1522年)の銘がある宝篋印塔には「奥津郷」の文字見られる天正4年1576年)に北畠家事実上滅亡すると、織田信長豊臣秀吉統治下に置かれた。奥津には伊勢紀伊からの海産物運ばれ市場盛んに開かれたという。 近世には伊勢国一志郡属し奥津村称した奥津村江戸時代当初津藩配下にあったが、元和5年1619年以降紀州藩松坂城代へと代わった。村内集落市場大久保・上箱・大工谷口があり、波籠(はこ)を枝郷としていた。村高時代資料によって値が大きく異なり文禄3年1594年)の高帳と『元禄郷帳』では484石余、承応4年1655年)の検地帳では608石余、『天保郷帳』と『旧高旧領取調帳』では756石余となっている。また『南紀徳川史』では村高754石余のうち新田石高145石余と記している。当時奥津村伊勢本街道沿いの宿場町として栄え葉タバコ生産していた。宿屋としては山中屋・兜屋・尾張屋古く伊・古里家・河内屋中北家・旭屋後世にでき、昭和中期頃まで残っていた。 明治2年1869年)の『大指出帳』によれば一志郡御蔵金納所が奥津村にあった明治4年1871年)の廃藩置県では度会県属し大区小区制下では第5大区小9ノ区に割り当てられた。1875年明治8年)には奥津学校開校した1889年明治22年)になると奥津村川上村合併して八幡村となり、奥津役場置かれた。1895年明治28年4月1日には八幡村役場久居警察署奥津分署開設され1926年大正15年6月25日奥津警察署昇格した奥津警察署管内は後の美杉村領域一致していた。1902年明治35年3月奥津郵便局開局した。1907年明治40年)には山内五郎奥津自邸普通銀行山内銀行を開行し、山林投資するなど地域貢献したが、昭和金融恐慌影響破綻した山内銀行資本金20万円ほどだったと推定され伊勢新聞出稿した広告によれば八知出張所有した四日市銀行(現・三十三銀行)との合併取り沙汰されたが、実現することなく姿を消した1930年昭和5年)、奥津電話開通した

※この「名松線開通以前」の解説は、「美杉町奥津」の解説の一部です。
「名松線開通以前」を含む「美杉町奥津」の記事については、「美杉町奥津」の概要を参照ください。

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