名松線開通以前
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奥津村は延元3年(1338年)に北畠顕能が伊勢国の国司に任じられて以降、北畠家の所領であった。室町時代の『満済准后日記』によると、正長元年7月19日(ユリウス暦:1428年8月29日)に小倉宮聖承が伊勢国司の北畠満雅を頼り、奥津に居を構えたという。同日記では「多気ノ奥、興津ト申所」と記されている。また奥津に現存する念仏寺の境内に建つ大永2年(1522年)の銘がある宝篋印塔には「奥津郷」の文字が見られる。天正4年(1576年)に北畠家が事実上滅亡すると、織田信長・豊臣秀吉の統治下に置かれた。奥津には伊勢や紀伊からの海産物が運ばれ、市場が盛んに開かれたという。 近世には伊勢国一志郡に属し、奥津村と称した。奥津村は江戸時代当初、津藩の配下にあったが、元和5年(1619年)以降は紀州藩松坂城代へと代わった。村内の集落に市場・大久保・上藤箱・大工・谷口があり、波籠(はこ)を枝郷としていた。村高は時代や資料によって値が大きく異なり、文禄3年(1594年)の高帳と『元禄郷帳』では484石余、承応4年(1655年)の検地帳では608石余、『天保郷帳』と『旧高旧領取調帳』では756石余となっている。また『南紀徳川史』では村高754石余のうち新田の石高は145石余と記している。当時の奥津村は伊勢本街道沿いの宿場町として栄え、薪や葉タバコを生産していた。宿屋としては山中屋・兜屋・尾張屋が古く、魚伊・古里家・河内屋・中北家・旭屋が後世にでき、昭和中期頃まで残っていた。 明治2年(1869年)の『大指出帳』によれば一志郡御蔵金納所が奥津村にあった。明治4年(1871年)の廃藩置県では度会県に属し、大区小区制下では第5大区小9ノ区に割り当てられた。1875年(明治8年)には奥津学校が開校した。1889年(明治22年)になると奥津村と川上村が合併して八幡村となり、奥津に役場が置かれた。1895年(明治28年)4月1日には八幡村役場に久居警察署奥津分署が開設され、1926年(大正15年)6月25日に奥津警察署に昇格した。奥津警察署の管内は後の美杉村の領域と一致していた。1902年(明治35年)3月、奥津郵便局が開局した。1907年(明治40年)には山内栄五郎が奥津の自邸で普通銀行・山内銀行を開行し、山林に投資するなど地域に貢献したが、昭和金融恐慌の影響で破綻した。山内銀行の資本金は20万円ほどだったと推定され、伊勢新聞に出稿した広告によれば八知に出張所を有した。四日市銀行(現・三十三銀行)との合併も取り沙汰されたが、実現することなく姿を消した。1930年(昭和5年)、奥津に電話が開通した。
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