吉原の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 08:31 UTC 版)
1958年(昭和33年)、売春防止法に伴い、東京の地名から「吉原」の文字は消え、300年余培われた「江戸の粋」が消えた。みな子は吉原が消えた後も、浅草などの座敷で三味線や鼓、踊りを披露した。芸に惚れた客から声がかかり、各地の座敷で吉原の芸を披露した。 みな子は「かつての吉原は戻らない」と諦めかけていたが、その矢先の1961年(昭和36年)、茶屋の一つの「松葉屋」が観光客相手の花魁ショーを始めることになり、女子中学生に芸を教えるよう依頼された。ショーといえども、もう一度吉原が輝きを取り戻すことを願い、自分の座敷を断ってまで没頭した。その後、はとバスの名物コースとして松葉屋のショーが組み込まれ、国内外の観光客から評判となり、1998年(平成10年)まで続いた。吉原文化継承を試みる人々の尽力により、一時は通りにバスが20台ほど並び、日本国外の観光客が通りにあふれた。 1990年頃、戦中・戦後を通じて約60年間暮らし続けた吉原を離れ、浅草に転居した。「日本一のソープランド街」といわれる地に変貌した吉原のことは、「あんな町は見たくない」と言って、足を踏み入れることすら拒むようになった。「今の吉原は粋じゃない。味も素っ気もない」とも語っていた。平成期には、当時の吉原について語ることを避けるようになっていた。 みな子は「生涯、現役を通す」と語っていたものの、遊びの多様化や女性の社会進出で花柳界は衰退の一途を辿り、1996年(平成8年)には5月時点で座敷は27回と激減、まったく声のかからない月もあった。客も減り、往時を語り継ぐ吉原の芸妓たちは次々に他界した。それでも「最後の現役の芸妓」として、浅草などの座敷に出続けていた。大井町の若い芸者たちなど、後進にも稽古をつけていた。
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