吉原の開設時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 14:53 UTC 版)
吉原遊郭の開設時期については、享保年間に庄司勝富が記した『異本洞房語園』に、慶長の頃、江戸城下の遊女屋は3・4箇所に分かれて営業しており、慶長17年(1612年)に庄司の先祖・庄司甚右衛門が願い出て、元和3年(1617年)3月に許可を得、日本橋葺屋町に土地を下賜されて、同4年(1618年)11月に(元)吉原町に遊廓が開かれた、とされていた。同書には、元吉原の町名として江戸町・同2丁目(のち本柳町)・京町(1丁目)・同2丁目(新町、元和6年・1620年頃造成)・角町(寛永3年・1626年造成)の紹介があった。 しかし、『見聞集』巻5・巻7に、本町・京町・江戸町・伏見町・堺町・大阪町・墨町・新町・揚屋町などの町名に言及があるため、慶長年間に既に吉原遊廓が開かれていたのか、早くから疑義が持たれていた。喜多村信節は『嬉遊笑覧』『増訂武江年表』などの中で疑義を述べ、慶長中と元和の2度、開基があったのではないか、と推測していた。また温知叢書『洞房語園』の解題が、慶長の頃にはまだそれほど有名ではなかったが、元和に至って著名になった、として事実上、元和説を棄てて慶長期に成立していたと見做すなど、『異本洞房語園』の信憑性を疑う向きもあった。 逆に、『見聞集』にある町名が『異本洞房語園』のほかに、元吉原の絵図などにも見えず、伏見町・堺町は寛文年間(1661年-1673年)に江戸町2丁目裏に新たに造成された町名、揚屋町は明暦大火(明暦3年・1657年)以降、新吉原移転後に設けられた町名ということが定説とされていたこと(出典は未詳)もあって、『見聞集』を偽書とみなす根拠にもなっていた。 『見聞集』の成立時期が寛永後期まで下るとすれば、吉原町の開設や新町・角(墨)町の造成時期については『異本洞房語園』と矛盾しないが、新吉原以降とされる伏見町・堺町・揚屋町などの設置時期には疑義を残している。なお、小野晋は、元和3年(1617年)の奥書のある『徳永種久紀行』の「ゑどくだり」の条に「すみちやう」「よし原」の町名が見えることから、吉原町の開設時期は、『見聞集』の成立時期にかかわらず、『異本洞房語園』の元和4年11月よりも遡る可能性がある、と指摘している。
※この「吉原の開設時期」の解説は、「見聞集」の解説の一部です。
「吉原の開設時期」を含む「見聞集」の記事については、「見聞集」の概要を参照ください。
- 吉原の開設時期のページへのリンク