合併及び新市成立に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:42 UTC 版)
「大崎市」の記事における「合併及び新市成立に至る経緯」の解説
「大崎市」という市名は、一般公募で集まった2292種類(応募件数10151件)の中から合併協議会が第1次選考で17点、第2次選考で10点、最終選考で6点(大崎、おおさき、北宮城、古川、ふるかわ、宮城)に絞り込み最終的に委員57人の投票で決定した(決選投票結果は「大崎」45票、「古川」7票、無効1票、欠席4人)。 当初から「最終的には合併協委員の投票で決める」と住民にも知らせていたが、公募の有効件数9737件のうち4010件が「古川」であったため「大崎」(1133件)という名称には古川市で反対運動が起こり、古川市の住民意向調査(18歳以上の市民1万人抽出)では「反対(どちらかといえば反対を含む)」が過半数にこそ達しなかったものの「賛成(どちらかといえば賛成を含む)」を7.89%上回った。 それでも1市6町は「将来を見据えた合併は必要」と主張し、合併期日を2005年4月1日として合併協定書に調印した。しかし、古川市議会は合併関連議案を否決(6町議会のうち5町議会は全議案可決、三本木町は廃置分合議案は可決したが議員定数議案のみ否決)。これを受け古川市の佐々木謙次市長(当時)は市民の信を問うため一旦辞任して出直し市長選に再出馬、3度目の当選を果たした。この結果、期日を1年遅らせ市民病院建設の前倒し等を条件に古川市議会の逆転賛成多数を得て「大崎市」が実現するという経緯をたどった。 しかし、「新市名を『古川市』に変更する」という佐々木市長が出直し市長選で掲げた公約は6町の反対で断念した。これにより古川市では合併の是非を問う住民投票を求める声が上がったが、市議会で否決された。住民投票に反対した市議13名は合併に賛成、住民投票に賛成した市議11名は合併に反対と完全に一致している。 古川市以外の住民意向調査等の動きは以下のとおりだった。 鳴子町の住民意向調査(18歳以上の町民全員)では合併反対が過半数だったが、高橋勇次郎町長は「住民意向調査は参考資料。合併是非は議員が決めるべき」と合併を推進した。合併反対派の町民グループが合併の是非を問う住民投票実施を求める直接請求を行ったが、町議会が否決した。 三本木町では合併の是非を問う住民投票が行われたが、佐藤武一郎町長は「いかなる投票結果になろうと合併を推進する」と表明した。結果、投票率は開票用件の50%以上に満たず開票されなかった。 岩出山町の住民意向調査では、「時代の流れなので合併はやむを得ない」を含めた賛成多数が50%を超えた。しかし、「時代の流れ」以外の合併賛成票は合併反対票を下回っている。岩出山町では、参考として岩出山中学校の生徒にもアンケート調査を行った。 田尻町では、住民意向調査で古川市中心の合併を望む声がわずかに大崎地方東部6町の合併希望を上回った。その前に行われた町職員対象の意向調査では古川市中心希望が圧倒的に多かった。 当選に決定的に作用するほどの論点となった公約である「新市名称を古川市に(古川市長選)」と「市民病院を現在地に早期改築(大崎市長選)」の双方を旧古川・大崎の両市長が当選後に撤回したこと、古川市議会での可決の原動力となった市民病院建設の前倒しも実は財政上実現性に乏しいものであったこと、仙台都市圏にも含まれる町(松山、鹿島台)までを市域にした一体性の乏しさなど全国にも類を見ない合併により誕生した大崎市の行方は予断を許さない。実際に大崎市になると合併協議会での試算を覆す財政難がマスコミによって報じられ合併後間もない2006年9月には市民病院の本院と岩出山分院の建設も延期、2008年2月に表明するまで建設(改築)時期未定とされていた。 また期日が遅れたと同時に合併協定調印式の際に調印された内容も変更され、合併協定書の原本はホームページ上では公表されていない。なお、協定書の原本が公開されないのは全国では珍しいケースである(協定書の中身は、ホームページ上で見ることは可能)。 大崎市という名称に反対していた旧古川市民の一部が、合併後しばらくの間、「条例を改正して市名を古川市に変えよう」という運動を展開し、市役所近くに看板も掲げていた。しかし合併反対派だった議員や住民も、既に議論の中身を「大崎市でどのようなまちづくりをすべきか。財政健全化をどう進めるか」という方向に移しており、市名変更の可能性は極めて低いとみられる。
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