合い口・記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 08:23 UTC 版)
引退直前に数回対戦したものを除くと、現役時代に北の湖に勝ち越した力士は少ない。ほとんどの力士には大きく勝ち越し、完封もいる。典型的なものは金城 (栃光) で、29戦全勝を達成している。金城は取り口にムラがあったと評されるが、関脇まで昇進して横綱と29回も当たる番付を保持しており、決して弱い力士ではない。その他、豊山 (長浜) に対して21戦全勝、蔵間に対しても17戦全勝と圧倒しているが、蔵間の場合は長い相撲の末で辛勝していたケースが多かった。三重ノ海が全盛期の北の湖に何とか勝とうと猫騙しをしたことも話題になったが、奇策は通じず三重ノ海は敗れている。 優勝決定戦に弱く、負けて優勝を逃すことが続いた。大関だった1974年7月場所では、横綱昇進を決定的とし2場所連続優勝という花を添えるべく臨んだ千秋楽で、横綱の輪島に本割り・決定戦と連敗。まず負けないだろうと思われた相手でも勝てず、優勝決定戦では初回から4連敗している。1976年5月場所に輪島に勝って決定戦初勝利を挙げると、1978年3月場所・5月場所と2場所続けて若三杉に勝つまで「決定戦に弱い横綱」と評された。通算成績は3勝5敗である (輪島戦1勝1敗、魁傑戦1敗、貴ノ花戦2敗、若三杉戦2勝、千代の富士戦1敗) 。千代の富士と決定戦を戦った1981年1月場所のように「自力逆転優勝 (直接対決で並び、決定戦で勝つケース) なるか」というところまで、逆転優勝を達成することはなかった。 強烈に強い反面、一度負けた相手に翌場所も連敗するという脆さを見せることがあった。また初顔合わせの相手に取りこぼすことも多かった。4代朝潮とは相性が悪く、7勝13敗 (1不戦敗含む)という不本意な成績に終わっている。朝潮との取り組みでは自分の相撲を忘れてしまっていたとコメントしているとともに、遠まわしに「朝潮の顔がおかしくて、力が抜けた」とも言っている。いずれも全盛期を含めてのことである。北の湖はせっかちな点があり、立ち合いまでの所作が速く、相手の所作が遅いといらだちの表情を見せ、制裁の意味からか勝負を急ぐところがあった。朝潮を苦手としたのもこのためとの見方がある。朝潮は立合いまでの動作が遅く、相手が横綱でも合わせようとしないので、北の湖がますます苛立ったのではないかと思われる。 通算24回の優勝のうち東京場所で16回優勝した (大鵬・白鵬と並ぶ最多タイ記録) が地方場所では優勝できず、特に横綱昇進直後には「地方場所に弱い」と評されることもあった。結局地方場所の初優勝は横綱昇進から2年以上経った1976年11月場所だった (11月場所での生涯唯一の優勝) 。その後は「荒れる春場所」と言われる3月場所で5連覇 (1977年 - 1981年) を果たすなどして評価を覆したが、1981年3月場所の優勝を最後に引退までの約4年間地方場所での優勝はなかった。地方場所での優勝は結局8回で、白鵬 (東京場所で16回優勝、地方場所で20回優勝) 、大鵬 (東京場所、地方場所共に16回ずつ優勝) 、千代の富士 (東京場所で13回、地方場所で18回優勝) に比べると、東京場所での強さが目立っていた。 年間最多勝を1981年まで通算7回も受賞 (ただし1976年は77勝13敗の輪島が受賞) したが、現在、白鵬に次ぐ史上2位の記録である。 関脇・大関昇進・初優勝記録は大鵬に及ばなかったが、十両・幕内・三役の昇進記録はいずれも当時の史上最年少記録であった。これらの記録は後年になって貴乃花に破られたが、横綱昇進の最年少記録は現在も破られていない。
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