各石碑の内容とは? わかりやすく解説

各石碑の内容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/14 13:00 UTC 版)

史跡探訪の碑」の記事における「各石碑の内容」の解説

松山往来狐橋跡:かつて備中松山藩浅尾藩領の八部市場村への町筋への東入口になっていた狐橋かっていた。現在もこの付近狐橋呼ばれている。 松山藩八田部村高札場跡:八田部高札場は,宮本町十字路面して設けられていた。 松山藩八田部教諭所跡:藩の教育革新挑んだ備中松山藩山田方谷は、八田部教諭所設置し藩士庶民の子弟の教育の場とした。安政2年1855年)に総社宮内に築かれ明治4年廃止されたのち、「成章校」という村立小学校生まれ変わった平賀元義来遊塩屋跡:西宮本町堀氏塩屋志保屋とも書く)は,酒造質屋回船問屋等で財をなし,備中松山藩御用達務めた慶応元年歌人平賀元義息子源太連れて訪ね塩屋所蔵の「吉備軍談戦録」を筆写させた。 大森元直生誕大森庄屋跡:大森元直は,15年庄屋務めたのち松山藩主水谷勝隆の命により玉島新田開拓普請奉行抜擢され玉島移住し大新田出現させた。 増和尚生誕小山庄屋跡:小山家大森庄屋の跡を継いで庄屋になった.増和尚は,小山右衛門の子として生まれ14歳薙髪し,修行の後29歳清水万勝寺住職になったまた,38歳のころ備中国分寺再建発起し領主蒔田家や八田部豪商たちの協力得て享保2年から6ヶ月完成した安原玉樹旧宅跡:栄町安原氏角清水屋は,本町元清水屋の分家であり,醤油と油絞り営んで財をなし,松山藩御用達務めた安原玉樹は,安原源之助正常の妻であり,学問好み和歌を得意とした.生涯歌に精進し幾度も上京し千草有功教えを受け,勤皇名歌人と交友した。 頼山陽来遊の元戎屋跡:本町亀山氏元戎屋は,代々酒造質屋回船問屋営み松山藩御用達務めた備中国分寺再建の際には筆頭助力者として増和尚協力した.元戎屋に宝暦9年(1759)に生まれた亀山右衛門道本は,文化人であり,頼山陽交友があった.頼山陽が元戎屋に滞在した時に酒を酌み交わし歓談したという記録残っている。 西山拙斎来遊元清水屋跡:元町安原元清水屋は、醤油と油しぼりで成功し松山藩御用達となった三代目八郎正郷は和歌が好きで、鴨方(現、浅口市)の西山拙斎師事し交遊があり、拙斎の『遊松山記』の中に元清水屋に泊まったときの歌仲間との様子残されている。 豪商西戎屋跡:本町の元戎屋から惣右衛門正綱が分家し酒造業成功して質屋海産物問屋など手広く展開していた亀山西戎屋は、総社優れた豪商となり、文政中期1824年)には松山藩御用達札座となった松山往来筋:山陽道板倉宿(現、岡山市)から発して総社商店街通り六枚橋西へ進んで、この碑のある交差点北へ進む道が、かつての松山往来筋だった。さらに門田井尻野の湛井地区通じ高梁川北上して備中松山城下町まで続いいていた。

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