南部仏印進駐の日米関係への影響
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「仏印進駐」の記事における「南部仏印進駐の日米関係への影響」の解説
野村大使が南部仏印進駐後アメリカ側の反応が明らかに悪化したと観測しているように、南部仏印進駐後のアメリカの態度は極めて強硬なものとなった。8月1日、アメリカは「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本も含まれていた。またイギリスも追随して経済制裁を発動した。これらの対応は日本陸海軍にとって予想外であった。当時の石油備蓄は一年半分しか存在せず、海軍内では石油欠乏状態の中でアメリカから戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、海軍首脳は早期開戦論を主張するようになった。 8月2日には野村大使がアメリカの某閣僚と会談したが、その際にコーデル・ハル国務長官がひどく失望していると伝えられた。アメリカ側は以前のフランス領インドシナ中立化案についての回答を求めたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置であるとして、支那事変終了後に撤退するという回答を行った。ハル国務長官はこの回答が申し入れに対する回答になっていないと拒絶し、日本が武力行使をやめることによって初めて日米交渉が継続できると伝えた。 その後も日本とアメリカの交渉は平行線をたどり、10月2日にはハル国務長官が「ハル四原則」の確認と、中国大陸およびフランス領インドシナからの撤退を求める覚書を手交した。日本側はハル四原則に「主義上」は同意するが、「実際ノ運用」については留保すること、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、フランス領インドシナからの撤退については、日中の共同防衛が実現した後に行うと回答した。日本側は日米の諒解案の一つ「乙案」をアメリカ側に提案することになったが、東郷茂徳外相は乙案の中に南部仏印駐屯の日本軍を北部に移駐させる案を挿入するよう訓令した。しかしこの提案はアメリカおよびイギリス、オランダ、オーストラリアにとっては不満のある内容であり、11月26日にはいわゆるハル・ノートがアメリカ側から手交された。 11月28日には野村大使、来栖三郎特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われたが、この席でハル・ノートが日本政府をいたく失望させたという日本側に対し、ルーズベルト大統領は「日米会談開始以来、まず日本の南部仏領インドシナ進駐により冷水を浴びせられた」とし、またハル国務長官も『暫定協定』が失敗に終わったのは、「日本が仏領インドシナに増兵することによって他国の兵力を牽制した」ことが原因の一つであると日本側の対応を非難した。12月2日にはハル国務長官が北部仏印に対する日本軍の増派が行われていると非難し、日本側の対応を改善するよう求めた。日本側はこの増派は協定による合意内であると反論したが、日本政府はこの頃すでに対米戦を決定していた。12月8日に日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し、ここに太平洋戦争が勃発することとなる。
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